好《い》い男だった上に腕も相当にあったと言うことです。けれども半之丞に関する話はどれも多少|可笑《おか》しいところを見ると、あるいはあらゆる大男|並《なみ》に総身《そうみ》に智慧《ちえ》が廻り兼ねと言う趣《おもむき》があったのかも知れません。ちょっと本筋へはいる前にその一例を挙げておきましょう。わたしの宿の主人の話によれば、いつか凩《こがらし》の烈《はげ》しい午後にこの温泉町を五十|戸《こ》ばかり焼いた地方的大火のあった時のことです。半之丞はちょうど一里ばかり離れた「か」の字村のある家へ建前《たてまえ》か何かに行っていました。が、この町が火事だと聞くが早いか、尻を端折《はしょ》る間《ま》も惜しいように「お」の字|街道《かいどう》へ飛び出したそうです。するとある農家の前に栗毛《くりげ》の馬が一匹|繋《つな》いである。それを見た半之丞は後《あと》で断《ことわ》れば好《い》いとでも思ったのでしょう。いきなりその馬に跨《またが》って遮二無二《しゃにむに》街道を走り出しました。そこまでは勇ましかったのに違いありません。しかし馬は走り出したと思うと、たちまち麦畑へ飛びこみました。それから麦畑をぐるぐる廻る、鍵《かぎ》の手に大根畑《だいこんばたけ》を走り抜ける、蜜柑山《みかんやま》をまっ直《すぐ》に駈《か》け下《お》りる、――とうとうしまいには芋《いも》の穴の中へ大男の半之丞を振り落したまま、どこかへ行ってしまいました。こう言う災難に遇《あ》ったのですから、勿論火事などには間《ま》に合いません。のみならず半之丞は傷だらけになり、這《は》うようにこの町へ帰って来ました。何《なん》でも後《あと》で聞いて見れば、それは誰も手のつけられぬ盲馬《めくらうま》だったと言うことです。
ちょうどこの大火のあった時から二三年|後《ご》になるでしょう、「お」の字町の「た」の字病院へ半之丞の体を売ったのは。しかし体を売ったと云っても、何も昔風に一生奉公《いっしょうぼうこう》の約束をした訣《わけ》ではありません。ただ何年かたって死んだ後《のち》、死体の解剖《かいぼう》を許す代りに五百円の金を貰《もら》ったのです。いや、五百円の金を貰ったのではない、二百円は死後に受けとることにし、差し当りは契約書《けいやくしょ》と引き換えに三百円だけ貰ったのです。ではその死後に受けとる二百円は一体誰の手へ渡るのかと言う
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