た。その中を、風だった竹籔の音が、かすかながらそこここから聞えて来る。往来の人通りも、暫くはとだえたらしい。
「人を殺したって、物盗りの女房になったって、する気でしたんでなければ仕方がないやね。」
 青侍は、扇を帯へさしながら、立上った。翁《おきな》も、もう提《ひさげ》の水で、泥にまみれた手を洗っている――二人とも、どうやら、暮れてゆく春の日と、相手の心もちとに、物足りない何ものかを、感じてでもいるような容子《ようす》である。
「とにかく、その女は仕合せ者だよ。」
「御冗談で。」
「まったくさ。お爺さんも、そう思うだろう。」
「手前でございますか。手前なら、そう云う運はまっぴらでございますな。」
「へええ、そうかね。私なら、二つ返事で、授《さず》けて頂くがね。」
「じゃ観音様を、御信心なさいまし。」
「そうそう、明日《あす》から私も、お籠《こもり》でもしようよ。」
[#地から1字上げ](大正五年十二月)



底本:「芥川龍之介全集1」ちくま文庫、筑摩書房
   1986(昭和61)年9月24日第1刷発行
   1995(平成7)年10月5日第13刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年3月〜1971(昭和46)年11月
入力:j.utiyama
校正:earthian
1998年11月11日公開
2004年3月9日修正
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