が、眼に痛く空を刺してゐるのさへ、何となく肌寒い。
「では、山科《やましな》辺ででもござるかな。」
「山科は、これぢや。もそつと、さきでござるよ。」
 成程、さう云ふ中に、山科も通りすぎた。それ所ではない。何かとする中に、関山も後にして、彼是《かれこれ》、午《ひる》少しすぎた時分には、とうとう三井寺の前へ来た。三井寺には、利仁の懇意にしてゐる僧がある。二人はその僧を訪ねて、午餐《ひるげ》の馳走になつた。それがすむと、又、馬に乗つて、途を急ぐ。行手は今まで来た路に比べると遙に人煙が少ない。殊に当時は盗賊が四方に横行した、物騒な時代である。――五位は猫背を一層低くしながら、利仁の顔を見上げるやうにして訊ねた。
「まだ、さきでござるのう。」
 利仁は微笑した。悪戯《いたづら》をして、それを見つけられさうになつた子供が、年長者に向つてするやうな微笑である。鼻の先へよせた皺《しわ》と、眼尻にたたへた筋肉のたるみとが、笑つてしまはうか、しまふまいかとためらつてゐるらしい。さうして、とうとう、かう云つた。
「実はな、敦賀《つるが》まで、お連れ申さうと思うたのぢや。」笑ひながら、利仁は鞭を挙げて遠くの空を指さした。その鞭の下には、的※[#「白+轢のつくり」、第3水準1−88−69]《てきれき》として、午後の日を受けた近江《あふみ》の湖が光つてゐる。
 五位は、狼狽《らうばい》した。
「敦賀と申すと、あの越前《ゑちぜん》の敦賀でござるかな。あの越前の――」
 利仁が、敦賀の人、藤原|有仁《ありひと》の女婿《ぢよせい》になつてから、多くは敦賀に住んでゐると云ふ事も、日頃から聞いてゐない事はない。が、その敦賀まで自分をつれて行く気だらうとは、今の今まで思はなかつた。第一、幾多の山河を隔ててゐる越前の国へ、この通り、僅二人の伴人《ともびと》をつれただけで、どうして無事に行かれよう。ましてこの頃は、往来《ゆきき》の旅人が、盗賊の為に殺されたと云ふ噂《うはさ》さへ、諸方にある。――五位は歎願するやうに、利仁の顔を見た。
「それは又、滅相な、東山ぢやと心得れば、山科。山科ぢやと心得れば、三井寺。揚句が越前の敦賀とは、一体どうしたと云ふ事でござる。始めから、さう仰せられうなら、下人共なりと、召つれようものを。――敦賀とは、滅相な。」
 五位は、殆どべそ[#「べそ」に傍点]を掻かないばかりになつて、呟《つぶや》いた。もし「芋粥に飽かむ」事が、彼の勇気を鼓舞しなかつたとしたら、彼は恐らく、そこから別れて、京都へ独り帰つて来た事であらう。
「利仁が一人居るのは、千人ともお思ひなされ。路次の心配は、御無用ぢや。」
 五位の狼狽するのを見ると、利仁は、少し眉を顰《しか》めながら、嘲笑《あざわら》つた。さうして調度掛を呼寄せて、持たせて来た壺胡※[#「竹かんむり/(「碌」の「石」に代えて「金」)」、第3水準1−89−79]《つぼやなぐひ》を背に負ふと、やはり、その手から、黒漆《こくしつ》の真弓《まゆみ》をうけ取つて、それを鞍上に横へながら、先に立つて、馬を進めた。かうなる以上、意気地のない五位は、利仁の意志に盲従するより外に仕方がない。それで、彼は心細さうに、荒涼とした周囲の原野を眺めながら、うろ覚えの観音経《くわんおんぎやう》を口の中に念じ念じ、例の赤鼻を鞍の前輪にすりつけるやうにして、覚束ない馬の歩みを、不相変《あひかはらず》とぼとぼと進めて行つた。
 馬蹄の反響する野は、茫々たる黄茅《くわうばう》に蔽《おほ》はれて、その所々にある行潦《みづたまり》も、つめたく、青空を映したまま、この冬の午後を、何時かそれなり凍つてしまふかと疑はれる。その涯《はて》には、一帯の山脈が、日に背いてゐるせゐか、かがやく可き残雪の光もなく、紫がかつた暗い色を、長々となすつてゐるが、それさへ蕭条《せうでう》たる幾叢《いくむら》の枯薄《かれすすき》に遮《さへぎ》られて、二人の従者の眼には、はいらない事が多い。――すると、利仁が、突然、五位の方をふりむいて、声をかけた。
「あれに、よい使者が参つた。敦賀への言づけを申さう。」
 五位は利仁の云ふ意味が、よくわからないので、怖々《こはごは》ながら、その弓で指さす方を、眺めて見た。元より人の姿が見えるやうな所ではない。唯、野葡萄《のぶだう》か何かの蔓《つる》が、灌木の一むらにからみついてゐる中を、一疋の狐が、暖かな毛の色を、傾きかけた日に曝《さら》しながら、のそりのそり歩いて行く。――と思ふ中に、狐は、慌《あわ》ただしく身を跳らせて、一散に、どこともなく走り出した。利仁が急に、鞭を鳴らせて、その方へ馬を飛ばし始めたからである。五位も、われを忘れて、利仁の後を、逐《お》つた。従者も勿論、遅れてはゐられない。しばらくは、石を蹴る馬蹄の音が、戞々《かつか
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