な。『おのれは、阪本の狐ぢや。今日、殿の仰せられた事を、言伝《ことづ》てせうほどに、近う寄つて、よう聞きやれ。』と、かう仰有《おつしや》るのでございまする。さて、一同がお前に参りますると、奥方の仰せられまするには、『殿は唯今俄に客人を具して、下られようとする所ぢや。明日巳時頃、高島の辺まで、男どもを迎ひに遺はし、それに鞍置馬二疋牽かせて参れ。』と、かう御意《ぎよい》遊ばすのでございまする。」
「それは、又、稀有《けう》な事でござるのう。」五位は利仁の顔と、郎等の顔とを、仔細らしく見比べながら、両方に満足を与へるやうな、相槌《あひづち》を打つた。
「それも唯、仰せられるのではございませぬ。さも、恐ろしさうに、わなわなとお震へになりましてな、『遅れまいぞ。遅れれば、おのれが、殿の御勘当をうけねばならぬ。』と、しつきりなしに、お泣きになるのでございまする。」
「して、それから、如何《いかが》した。」
「それから、多愛なく、お休みになりましてな。手前共の出て参りまする時にも、まだ、お眼覚にはならぬやうで、ございました。」
「如何でござるな。」郎等の話を聞き完《をは》ると、利仁は五位を見て、得意らしく云つた。「利仁には、獣《けもの》も使はれ申すわ。」
「何とも驚き入る外は、ござらぬのう。」五位は、赤鼻を掻きながら、ちよいと、頭を下げて、それから、わざとらしく、呆れたやうに、口を開いて見せた。口髭には、今飲んだ酒が、滴《しづく》になつて、くつついてゐる。

       ―――――――――――――――――

 その日の夜の事である。五位は、利仁の館《やかた》の一間《ひとま》に、切燈台の灯を眺めるともなく、眺めながら、寝つかれない長の夜をまぢまぢして、明《あか》してゐた。すると、夕方、此処へ着くまでに、利仁や利仁の従者と、談笑しながら、越えて来た松山、小川、枯野、或は、草、木の葉、石、野火の煙のにほひ、――さう云ふものが、一つづつ、五位の心に、浮んで来た。殊に、雀色時《すずめいろどき》の靄《もや》の中を、やつと、この館へ辿《たど》りついて、長櫃《ながびつ》に起してある、炭火の赤い焔を見た時の、ほつとした心もち、――それも、今かうして、寝てゐると、遠い昔にあつた事としか、思はれない。五位は綿の四五寸もはいつた、黄いろい直垂《ひたたれ》の下に、楽々と、足をのばしながら、ぼんやり、われ
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