違ってしまう。もし『幸福』を掴まえる気ならば、一思いに木馬を飛び下りるが好《よ》い。――」
「まさかほんとうに飛び下りはしまいな?」
 からかうようにこういったのは、木村という電気会社の技師長だった。
「冗談《じょうだん》いっちゃいけない。哲学は哲学、人生は人生さ。――所がそんな事を考えている内に、三度目になったと思い給え。その時ふと気がついて見ると、――これには僕も驚いたね。あの女が笑顔《えがお》を見せていたのは、残念ながら僕にじゃない。賄征伐《まかないせいばつ》の大将、リヴィングストンの崇拝家、ETC. ETC. ……ドクタア和田長平《わだりょうへい》にだったんだ。」
「しかしまあ哲学通りに、飛び下りなかっただけ仕合せだったよ。」
 無口な野口も冗談をいった。しかし藤井は相不変《あいかわらず》話を続けるのに熱中していた。
「和田のやつも女の前へ来ると、きっと嬉しそうに御時宜《おじぎ》をしている。それがまたこう及び腰に、白い木馬に跨《またが》ったまま、ネクタイだけ前へぶらさげてね。――」
「嘘をつけ。」
 和田もとうとう沈黙を破った。彼はさっきから苦笑《くしょう》をしては、老酒《ラオチュ》ばかりひっかけていたのである。
「何、嘘なんぞつくもんか。――が、その時はまだ好《い》いんだ。いよいよメリイ・ゴオ・ラウンドを出たとなると、和田は僕も忘れたように、女とばかりしゃべっているじゃないか? 女も先生先生といっている。埋《う》まらない役まわりは僕一人さ。――」
「なるほど、これは珍談だな。――おい、君、こうなればもう今夜の会費は、そっくり君に持って貰《もら》うぜ。」
 飯沼は大きい魚翅《イウツウ》の鉢へ、銀の匙《さじ》を突きこみながら、隣にいる和田をふり返った。
「莫迦《ばか》な。あの女は友だちの囲いものなんだ。」
 和田は両肘《りょうひじ》をついたまま、ぶっきらぼうにいい放った。彼の顔は見渡した所、一座の誰よりも日に焼けている。目鼻立ちも甚だ都会じみていない。その上|五分刈《ごぶが》りに刈りこんだ頭は、ほとんど岩石のように丈夫そうである。彼は昔ある対校試合に、左の臂《ひじ》を挫《くじ》きながら、五人までも敵を投げた事があった。――そういう往年の豪傑《ごうけつ》ぶりは、黒い背広《せびろ》に縞のズボンという、当世流行のなりはしていても、どこかにありありと残っている。
「飯沼! 君の囲い者じゃないか?」
 藤井は額越《ひたいご》しに相手を見ると、にやりと酔《よ》った人の微笑を洩《も》らした。
「そうかも知れない。」
 飯沼は冷然と受け流してから、もう一度和田をふり返った。
「誰だい、その友だちというのは?」
「若槻《わかつき》という実業家だが、――この中でも誰か知っていはしないか? 慶応《けいおう》か何か卒業してから、今じゃ自分の銀行へ出ている、年配も我々と同じくらいの男だ。色の白い、優しい目をした、短い髭《ひげ》を生やしている、――そうさな、まあ一言《いちごん》にいえば、風流愛すべき好男子だろう。」
「若槻峯太郎《わかつきみねたろう》、俳号《はいごう》は青蓋《せいがい》じゃないか?」
 わたしは横合いから口を挟《はさ》んだ。その若槻という実業家とは、わたしもつい四五日|前《まえ》、一しょに芝居を見ていたからである。
「そうだ。青蓋《せいがい》句集というのを出している、――あの男が小えんの檀那《だんな》なんだ。いや、二月《ふたつき》ほど前《まえ》までは檀那だったんだ。今じゃ全然手を切っているが、――」
「へええ、じゃあの若槻という人は、――」
「僕の中学時代の同窓なんだ。」
「これはいよいよ穏《おだや》かじゃない。」
 藤井はまた陽気な声を出した。
「君は我々が知らない間《あいだ》に、その中学時代の同窓なるものと、花を折り柳に攀《よ》じ、――」
「莫迦《ばか》をいえ。僕があの女に会ったのは、大学病院へやって来た時に、若槻にもちょいと頼まれていたから、便宜を図ってやっただけなんだ。蓄膿症《ちくのうしょう》か何かの手術だったが、――」
 和田は老酒《ラオチュ》をぐいとやってから、妙に考え深い目つきになった。
「しかしあの女は面白いやつだ。」
「惚《ほ》れたかね?」
 木村は静かにひやかした。
「それはあるいは惚れたかも知れない。あるいはまたちっとも惚れなかったかも知れない。が、そんな事よりも話したいのは、あの女と若槻との関係なんだ。――」
 和田はこう前置きをしてから、いつにない雄弁《ゆうべん》を振い出した。
「僕は藤井の話した通り、この間《あいだ》偶然小えんに遇った。所が遇って話して見ると、小えんはもう二月ほど前に、若槻と別れたというじゃないか? なぜ別れたと訊《き》いて見ても、返事らしい返事は何もしない。ただ寂しそうに笑いながら、もと
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