女と別れるくらいは、何でもありませんといっているじゃないか? たといそれは辞令《じれい》にしても、猛烈な執着《しゅうじゃく》はないに違いない。猛烈な、――たとえばその浪花節語りは、女の薄情を憎む余り、大怪我をさせたという事だろう。僕は小えんの身になって見れば、上品でも冷淡な若槻よりも、下品でも猛烈な浪花節語りに、打ち込むのが自然だと考えるんだ。小えんは諸芸を仕込ませるのも、若槻に愛のない証拠だといった。僕はこの言葉の中にも、ヒステリイばかりを見ようとはしない。小えんはやはり若槻との間《あいだ》に、ギャップのある事を知っていたんだ。
「しかし僕も小えんのために、浪花節語りと出来た事を祝福しようとは思っていない。幸福になるか不幸になるか、それはどちらともいわれないだろう。――が、もし不幸になるとすれば、呪《のろ》わるべきものは男じゃない。小えんをそこに至らしめた、通人《つうじん》若槻青蓋《わかつきせいがい》だと思う。若槻は――いや、当世の通人はいずれも個人として考えれば、愛すべき人間に相違あるまい。彼等は芭蕉《ばしょう》を理解している。レオ・トルストイを理解している。池大雅《いけのたいが》を理解している。武者小路実篤《むしゃのこうじさねあつ》を理解している。カアル・マルクスを理解している。しかしそれが何になるんだ? 彼等は猛烈な恋愛を知らない。猛烈な創造の歓喜を知らない。猛烈な道徳的情熱を知らない。猛烈な、――およそこの地球を荘厳にすべき、猛烈な何物も知らずにいるんだ。そこに彼等の致命傷《ちめいしょう》もあれば、彼等の害毒も潜《ひそ》んでいると思う。害毒の一つは能動的に、他人をも通人に変らせてしまう。害毒の二つは反動的に、一層《いっそう》他人を俗にする事だ。小えんの如きはその例じゃないか? 昔から喉《のど》の渇《かわ》いているものは、泥水《どろみず》でも飲むときまっている。小えんも若槻に囲われていなければ、浪花節語りとは出来なかったかも知れない。
「もしまた幸福になるとすれば、――いや、あるいは若槻の代りに、浪花節語りを得た事だけでも、幸福は確《たしか》に幸福だろう。さっき藤井がいったじゃないか? 我々は皆同じように、実生活の木馬に乗せられているから、時たま『幸福』にめぐり遇っても、掴《つか》まえない内にすれ違ってしまう。もし『幸福』を掴まえる気ならば、一思《ひとおも》いに木馬を飛び下りるが好《よ》い。――いわば小えんも一思いに、実生活の木馬を飛び下りたんだ。この猛烈な歓喜や苦痛は、若槻如き通人の知る所じゃない。僕は人生の価値を思うと、百の若槻には唾《つば》を吐いても、一の小えんを尊びたいんだ。
「君たちはそう思わないか?」
和田は酔眼《すいがん》を輝かせながら、声のない一座を見まわした。が、藤井はいつのまにか、円卓《テエブル》に首を垂らしたなり、気楽そうにぐっすり眠《ね》こんでいた。
[#地から1字上げ](大正十一年六月)
底本:「芥川龍之介全集5」ちくま文庫、筑摩書房
1987(昭和62)年2月24日第1刷発行
1995(平成7)年4月10日第6刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
1971(昭和46)年3月〜1971(昭和46)年11月
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1999年1月10日公開
2004年3月8日修正
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