お前は多力者のつもりでゐるな? 
僕 勿論僕は多力者の一人だ。しかし最大の多力者ではない。若し最大の多力者だつたとすれば、あのゲエテと云ふ男のやうに安んじて偶像になつてゐたであらう。
或声 ゲエテの恋愛は純潔だつた。
僕 それは※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]《うそ》だ。文芸史家の※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]だ。ゲエテは丁度三十五の年に突然|伊太利《イタリイ》へ逃走してゐる。さうだ。逃走と云ふ外はない。あの秘密を知つてゐるものはゲエテ自身を例外にすれば、シユタイン夫人一人だけだらう。
或声 お前の言ふことは自己弁護だ。自己弁護位|手易《たやす》いものはない。
僕 自己弁護は容易ではない。若《も》し手易いものとすれば、弁護士と云ふ職業は成り立たない筈《はず》だ。
或声 口巧者《くちがうしや》な横着ものめ! 誰ももうお前を相手にしないぞ。
僕 僕はまだ僕に感激を与へる樹木や水を持つてゐる。それから和漢東西の本を三百冊以上持つてゐる。
或声 しかしお前は永久にお前の読者を失つてしまふぞ。
僕 僕は将来に読者を持つてゐる。
或声 将来の読者はパンをくれ
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