芥川 竜之介
闇中問答
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)矛盾《むじゆん》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)突然|伊太利《イタリイ》へ
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]《うそ》
〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)支配する 〔Daimo^n〕 だ。
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
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一
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
或声 お前は俺の思惑とは全然違つた人間だつた。
僕 それは僕の責任ではない。
或声 しかしお前はその誤解にお前自身も協力してゐる。
僕 僕は一度も協力したことはない。
或声 しかしお前は風流を愛した、――或は愛したやうに装つたらう。
僕 僕は風流を愛してゐる。
或声 お前はどちらかを愛してゐる? 風流か? それとも一人の女か?
僕 僕はどちらも愛してゐる。
或声 (冷笑)それを矛盾《むじゆん》とは思はないと見えるな。
僕 誰が矛盾と思ふものか? 一人の女を愛するものは古瀬戸《こせと》の茶碗を愛さないかも知れない。しかしそれは古瀬戸の茶碗を愛する感覚を持たないからだ。
或声 風流人はどちらかを選ばなければならぬ。
僕 僕は生憎《あいにく》風流人よりもずつと多慾に生まれついてゐる。しかし将来は一人の女よりも古瀬戸の茶碗を選ぶかも知れない。
或声 ではお前は不徹底だ。
僕 若《も》しそれを不徹底と云ふならば、インフルエンザに罹《かか》つた後も冷水摩擦をやつてゐるものは誰よりも徹底してゐるだらう。
或声 もう強がるのはやめにしてしまへ。お前は内心は弱つてゐる。しかし当然お前の受ける社会的非難をはね返す為にそんなことを言つてゐるだけだらう。
僕 僕は勿論そのつもりだ。第一考へて見るが善《い》い。はね返さなかつたが最後、押しつぶされてしまふ。
或声 お前は何と云ふ図々《づうづう》しい奴だ。
僕 僕は少しも図々しくはない。僕の心臓は瑣細《ささい》な事にあつても氷のさはつたやうにひやひやとしてゐる。
或声 お前は多力者のつもりでゐるな?
僕 勿論僕は多力者の一人だ。しかし最大の多力者ではない。若し最大の多力者だつたとすれば、あのゲエテと云ふ男のやうに安んじて偶像になつてゐたであらう。
或声 ゲエテの恋愛は純潔だつた。
僕 それは※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]《うそ》だ。文芸史家の※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]だ。ゲエテは丁度三十五の年に突然|伊太利《イタリイ》へ逃走してゐる。さうだ。逃走と云ふ外はない。あの秘密を知つてゐるものはゲエテ自身を例外にすれば、シユタイン夫人一人だけだらう。
或声 お前の言ふことは自己弁護だ。自己弁護位|手易《たやす》いものはない。
僕 自己弁護は容易ではない。若《も》し手易いものとすれば、弁護士と云ふ職業は成り立たない筈《はず》だ。
或声 口巧者《くちがうしや》な横着ものめ! 誰ももうお前を相手にしないぞ。
僕 僕はまだ僕に感激を与へる樹木や水を持つてゐる。それから和漢東西の本を三百冊以上持つてゐる。
或声 しかしお前は永久にお前の読者を失つてしまふぞ。
僕 僕は将来に読者を持つてゐる。
或声 将来の読者はパンをくれるか?
僕 現世の読者さへ碌《ろく》にくれない。僕の最高の原稿料は一枚十円に限つてゐた。
或声 しかしお前は資産を持つてゐたらう?
僕 僕の資産は本所にある猫の額ほどの地面だけだ。僕の月収は最高の時でも三百円を越えたことはない。
或声 しかしお前は家を持つてゐる。それから近代文芸読本の……
僕 あの家の棟木《むなぎ》は僕には重たい。近代文芸読本の印税はいつでもお前に用立ててやる。僕の貰つたのは四五百円だから。
或声 しかしお前はあの読本の編者だ。それだけでもお前は恥ぢなければならぬ。
僕 何を僕に恥ぢろと云ふのだ?
或声 お前は教育家の仲間入りをした。
僕 それは※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]だ。教育家こそ僕等の仲間入りをしてゐる。僕はその仕事を取り戻したのだ。
或声 お前はそれでも夏目先生の弟子か?
僕 僕は勿論夏目先生の弟子だ。お前は文墨《ぶんぼく》に親しんだ漱石先生を知つてゐるかも知れない。しかしあの気違ひじみた天才の夏目先生を知らないだらう。
或声 お前には思想と云ふものはない。偶々《たまたま》あるのは矛盾だらけの思想だ。
僕 それは僕の進歩する証拠だ。阿呆
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