まゐり》。此所《ここ》を通りけるに、池の中より『もしもし』と呼びかくる。誰ならんと立ちどまれば、いぜんの女池の中よりによつと出で、『男と見かけ頼み申し度き事あり』と云はせもはてず、狐狸《こり》のしわざか、人にこそより目にもの見せんと腕まくりして立ちかかれば、『いやいやさやうの者にあらず。我は今西村《いまにしむら》の兵右衛門《へいゑもん》に奉公致すものなるが、しかじかのことにてむなしく成る。あまりになさけなきしかたゆへ、怨《うら》みをなさんと一念此身をはなれず今宵《こよひ》かの家にゆかんと思へど主《あるじ》つねづね観音を信じ、門戸《もんこ》に二月堂《にぐわつだう》の牛王《ごわう》を押し置きけるゆゑ、死霊《しりやう》の近づくことかなはず(中略)牛王をとりのけたまはらば、生々世々《しやうじやうせぜ》御恩《ごおん》』と、世にくるしげにたのみける。
「かのもの不敵《ふてき》のものなれば(中略)そのところををしへたまへ。のぞみをかなへまゐらせんと、あとにつきていそぎゆく。ほどなく兵右衛門が宅になれば、女の指図《さしづ》にまかせ、何かはしらず守り札ひきまくり捨てければ、女はよろこび戸をひらき、家へ入
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