日ましにだんだん高まるばかりなのです。
 主筆 達雄はどう云う男なのですか?
 保吉 達雄は音楽の天才です。ロオランの書いたジャン・クリストフとワッセルマンの書いたダニエル・ノオトハフトとを一丸《いちがん》にしたような天才です。が、まだ貧乏だったり何かするために誰にも認められていないのですがね。これは僕の友人の音楽家をモデルにするつもりです。もっとも僕の友人は美男《びなん》ですが、達雄は美男じゃありません。顔は一見ゴリラに似た、東北生れの野蛮人《やばんじん》なのです。しかし目だけは天才らしい閃《ひらめ》きを持っているのですよ。彼の目は一塊《いっかい》の炭火《すみび》のように不断の熱を孕《はら》んでいる。――そう云う目をしているのですよ。
 主筆 天才はきっと受けましょう。
 保吉 しかし妙子は外交官の夫に不足のある訣《わけ》ではないのです。いや、むしろ前よりも熱烈に夫を愛しているのです。夫もまた妙子を信じている。これは云うまでもないことでしょう。そのために妙子の苦しみは一層つのるばかりなのです。
 主筆 つまりわたしの近代的と云うのはそう云う恋愛のことですよ。
 保吉 達雄はまた毎日電燈さえつけば、必ず西洋間へ顔を出すのです。それも夫のいる時ならばまだしも苦労はないのですが、妙子のひとり留守《るす》をしている時にもやはり顔を出すのでしょう。妙子はやむを得ずそう云う時にはピアノばかり弾《ひ》かせるのです。もっとも夫のいる時でも、達雄はたいていピアノの前へ坐らないことはないのですが。
 主筆 そのうちに恋愛に陥るのですか?
 保吉 いや、容易に陥らないのです。しかしある二月の晩、達雄は急にシュウベルトの「シルヴィアに寄する歌」を弾きはじめるのです。あの流れる炎《ほのお》のように情熱の籠《こも》った歌ですね。妙子は大きい椰子《やし》の葉の下にじっと耳を傾けている。そのうちにだんだん達雄に対する彼女の愛を感じはじめる。同時にまた目の前へ浮かび上った金色《こんじき》の誘惑を感じはじめる。もう五分、――いや、もう一分たちさえすれば、妙子は達雄の腕《かいな》の中へ体を投げていたかも知れません。そこへ――ちょうどその曲の終りかかったところへ幸い主人が帰って来るのです。
 主筆 それから?
 保吉 それから一週間ばかりたった後《のち》、妙子はとうとう苦しさに堪え兼ね、自殺をしようと決心するのです。が、ちょうど妊娠《にんしん》しているために、それを断行する勇気がありません。そこで達雄に愛されていることをすっかり夫に打ち明けるのです。もっとも夫を苦しめないように、彼女も達雄を愛していることだけは告白せずにしまうのですが。
 主筆 それから決闘にでもなるのですか?
 保吉 いや、ただ夫は達雄の来た時に冷かに訪問を謝絶《しゃぜつ》するのです。達雄は黙然《もくねん》と唇《くちびる》を噛んだまま、ピアノばかり見つめている。妙子は戸の外に佇《たたず》んだなりじっと忍び泣きをこらえている。――その後《のち》二月《ふたつき》とたたないうちに、突然官命を受けた夫は支那《しな》の漢口《ハンカオ》の領事館へ赴任《ふにん》することになるのです。
 主筆 妙子も一しょに行くのですか?
 保吉 勿論一しょに行くのです。しかし妙子は立つ前に達雄へ手紙をやるのです。「あなたの心には同情する。が、わたしにはどうすることも出来ない。お互に運命だとあきらめましょう。」――大体そう云う意味ですがね。それ以来妙子は今日までずっと達雄に会わないのです。
 主筆 じゃ小説はそれぎりですね。
 保吉 いや、もう少し残っているのです。妙子は漢口《ハンカオ》へ行った後《のち》も、時々達雄を思い出すのですね。のみならずしまいには夫よりも実は達雄を愛していたと考えるようになるのですね。好《い》いですか? 妙子を囲んでいるのは寂しい漢口《ハンカオ》の風景ですよ。あの唐《とう》の崔※[#「景+頁」、第3水準1−94−5]《さいこう》の詩に「晴川歴歴《せいせんれきれき》漢陽樹《かんようじゅ》 芳草萋萋《ほうそうせいせい》鸚鵡洲《おうむしゅう》」と歌われたことのある風景ですよ。妙子はとうとうもう一度、――一年ばかりたった後《のち》ですが、――達雄へ手紙をやるのです。「わたしはあなたを愛していた。今でもあなたを愛している。どうか自《みずか》ら欺《あざむ》いていたわたしを可哀《かわい》そうに思って下さい。」――そう云う意味の手紙をやるのです。その手紙を受けとった達雄は……
 主筆 早速《さっそく》支那へ出かけるのでしょう。
 保吉 とうていそんなことは出来ません。何しろ達雄は飯を食うために、浅草《あさくさ》のある活動写真館のピアノを弾《ひ》いているのですから。
 主筆 それは少し殺風景ですね。
 保吉 殺風景でも
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