のした事の影響が、意外な所まで波動したのに、聊《いささ》か驚いただけなのである。が、ふだんの彼なら、藤左衛門や忠左衛門と共に、笑ってすませる筈のこの事実が、その時の満足しきった彼の心には、ふと不快な種を蒔《ま》く事になった。これは恐らく、彼の満足が、暗々の裡《うち》に論理と背馳《はいち》して、彼の行為とその結果のすべてとを肯定するほど、虫の好い性質を帯びていたからであろう。勿論当時の彼の心には、こう云う解剖的《かいぼうてき》な考えは、少しもはいって来なかった。彼はただ、春風《しゅんぷう》の底に一脈の氷冷《ひれい》の気を感じて、何となく不愉快になっただけである。
 しかし、内蔵助《くらのすけ》の笑わなかったのは、格別二人の注意を惹かなかったらしい。いや、人の好い藤左衛門の如きは、彼自身にとってこの話が興味あるように、内蔵助にとっても興味があるものと確信して疑わなかったのであろう。それでなければ、彼は、更に自身|下《しも》の間《ま》へ赴いて、当日の当直だった細川家の家来、堀内伝右衛門を、わざわざこちらへつれて来などはしなかったのに相違ない。所が、万事にまめな彼は、忠左衛門を顧《かえりみ》て、「伝右衛門殿をよんで来ましょう。」とか何とか云うと、早速隔ての襖《ふすま》をあけて、気軽く下の間へ出向いて行った。そうして、ほどなく、見た所から無骨《ぶこつ》らしい伝右衛門を伴なって、不相変《あいかわらず》の微笑をたたえながら、得々《とくとく》として帰って来た。
「いや、これは、とんだ御足労を願って恐縮でございますな。」
 忠左衛門は、伝右衛門の姿を見ると、良雄《よしかつ》に代って、微笑しながらこう云った。伝右衛門の素朴で、真率《しんそつ》な性格は、お預けになって以来、夙《つと》に彼と彼等との間を、故旧《こきゅう》のような温情でつないでいたからである。
「早水氏《はやみうじ》が是非こちらへ参れと云われるので、御邪魔とは思いながら、罷《まか》り出ました。」
 伝右衛門は、座につくと、太い眉毛を動かしながら、日にやけた頬の筋肉を、今にも笑い出しそうに動かして、万遍なく一座を見廻した。これにつれて、書物を読んでいたのも、筆を動かしていたのも、皆それぞれ挨拶《あいさつ》をする。内蔵助もやはり、慇懃《いんぎん》に会釈をした。ただその中で聊《いささ》か滑稽の観があったのは、読みかけた太平記を前に置いて、眼鏡をかけたまま、居眠りをしていた堀部弥兵衛が、眼をさますが早いか、慌ててその眼鏡をはずして、丁寧に頭を下げた容子《ようす》である。これにはさすがな間喜兵衛も、よくよく可笑《おか》しかったものと見えて、傍《かたわら》の衝立《ついたて》の方を向きながら、苦しそうな顔をして笑をこらえていた。
「伝右衛門殿も老人はお嫌いだと見えて、とかくこちらへはお出《いで》になりませんな。」
 内蔵助は、いつに似合わない、滑《なめらか》な調子で、こう云った。幾分か乱されはしたものの、まだ彼の胸底には、さっきの満足の情が、暖く流れていたからであろう。
「いや、そう云う訳ではございませんが、何かとあちらの方々《かたがた》に引とめられて、ついそのまま、話しこんでしまうのでございます。」
「今も承《うけたまわ》れば、大分《だいぶ》面白い話が出たようでございますな。」
 忠左衛門も、傍《かたわら》から口を挟《はさ》んだ。
「面白い話――と申しますと……」
「江戸中で仇討《あだうち》の真似事が流行《はや》ると云う、あの話でございます。」
 藤左衛門は、こう云って、伝右衛門と内蔵助《くらのすけ》とを、にこにこしながら、等分に見比べた。
「はあ、いや、あの話でございますか。人情と云うものは、実に妙なものでございます。御一同の忠義に感じると、町人百姓までそう云う真似がして見たくなるのでございましょう。これで、どのくらいじだらくな上下《じょうげ》の風俗が、改まるかわかりません。やれ浄瑠璃《じょうるり》の、やれ歌舞伎のと、見たくもないものばかり流行《はや》っている時でございますから、丁度よろしゅうございます。」
 会話の進行は、また内蔵助にとって、面白くない方向へ進むらしい。そこで、彼は、わざと重々しい調子で、卑下《ひげ》の辞を述べながら、巧《たくみ》にその方向を転換しようとした。
「手前たちの忠義をお褒《ほ》め下さるのは難有《ありがた》いが、手前|一人《ひとり》の量見では、お恥しい方が先に立ちます。」
 こう云って、一座を眺めながら、
「何故かと申しますと、赤穂一藩に人も多い中で、御覧の通りここに居りまするものは、皆|小身者《しょうしんもの》ばかりでございます。もっとも最初は、奥野将監《おくのしょうげん》などと申す番頭《ばんがしら》も、何かと相談にのったものでございますが、中ごろから量見を変え、つ
前へ 次へ
全6ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング