我々と彼等との差は、存外大きなものではない。――江戸の町人に与えた妙な影響を、前に快からず思った内蔵助《くらのすけ》は、それとは稍《やや》ちがった意味で、今度は背盟の徒が蒙った影響を、伝右衛門によって代表された、天下の公論の中に看取した。彼が苦い顔をしたのも、決して偶然ではない。
しかし、内蔵助の不快は、まだこの上に、最後の仕上げを受ける運命を持っていた。
彼の無言でいるのを見た伝右衛門は、大方《おおかた》それを彼らしい謙譲な心もちの結果とでも、推測したのであろう。愈《いよいよ》彼の人柄に敬服した。その敬服さ加減を披瀝《ひれき》するために、この朴直な肥後侍《ひござむらい》は、無理に話頭を一転すると、たちまち内蔵助の忠義に対する、盛な歎賞の辞をならべはじめた。
「過日もさる物識りから承りましたが、唐土《もろこし》の何とやら申す侍は、炭を呑んで唖《おし》になってまでも、主人の仇《あだ》をつけ狙ったそうでございますな。しかし、それは内蔵助殿のように、心にもない放埓《ほうらつ》をつくされるよりは、まだまだ苦しくない方《ほう》ではございますまいか。」
伝右衛門は、こう云う前置きをして、それから、内蔵助が濫行《らんこう》を尽した一年前の逸聞《いつぶん》を、長々としゃべり出した。高尾《たかお》や愛宕《あたご》の紅葉狩も、佯狂《ようきょう》の彼には、どのくらいつらかった事であろう。島原《しまばら》や祇園《ぎおん》の花見の宴《えん》も、苦肉の計に耽っている彼には、苦しかったのに相違ない。……
「承れば、その頃京都では、大石かるくて張抜石《はりぬきいし》などと申す唄も、流行《はや》りました由を聞き及びました。それほどまでに、天下を欺き了《おお》せるのは、よくよくの事でなければ出来ますまい。先頃|天野弥左衛門《あまのやざえもん》様が、沈勇だと御賞美になったのも、至極道理な事でございます。」
「いや、それほど何も、大した事ではございません。」内蔵助は、不承不承《ふしょうぶしょう》に答えた。
その人に傲《たかぶ》らない態度が、伝右衛門にとっては、物足りないと同時に、一層の奥床しさを感じさせたと見えて、今まで内蔵助の方を向いていた彼は、永年京都|勤番《きんばん》をつとめていた小野寺十内の方へ向きを換えると、益《ますます》、熱心に推服の意を洩《もら》し始めた。その子供らしい熱心さが、一党の中でも通人の名の高い十内には、可笑《おか》しいと同時に、可愛《かわい》かったのであろう。彼は、素直《すなお》に伝右衛門の意をむかえて、当時内蔵助が仇家《きゅうか》の細作《さいさく》を欺くために、法衣《ころも》をまとって升屋《ますや》の夕霧《ゆうぎり》のもとへ通いつめた話を、事明細に話して聞かせた。
「あの通り真面目な顔をしている内蔵助《くらのすけ》が、当時は里げしきと申す唄を作った事もございました。それがまた、中々評判で、廓《くるわ》中どこでもうたわなかった所は、なかったくらいでございます。そこへ当時の内蔵助の風俗が、墨染の法衣姿《ころもすがた》で、あの祇園の桜がちる中を、浮《うき》さま浮さまとそやされながら、酔って歩くと云うのでございましょう。里げしきの唄が流行《はや》ったり、内蔵助の濫行も名高くなったりしたのは、少しも無理はございません。何しろ夕霧と云い、浮橋《うきはし》と云い、島原や撞木町《しゅもくまち》の名高い太夫《たゆう》たちでも、内蔵助と云えば、下にも置かぬように扱うと云う騒ぎでございましたから。」
内蔵助は、こう云う十内の話を、殆ど侮蔑されたような心もちで、苦々《にがにが》しく聞いていた。と同時にまた、昔の放埓《ほうらつ》の記憶を、思い出すともなく思い出した。それは、彼にとっては、不思議なほど色彩の鮮《あざやか》な記憶である。彼はその思い出の中に、長蝋燭《ながろうそく》の光を見、伽羅《きゃら》の油の匂を嗅ぎ、加賀節《かがぶし》の三味線の音《ね》を聞いた。いや、今十内が云った里げしきの「さすが涙のばらばら袖に、こぼれて袖に、露のよすがのうきつとめ」と云う文句さえ、春宮《しゅんきゅう》の中からぬけ出したような、夕霧や浮橋のなまめかしい姿と共に、歴々と心中に浮んで来た。如何に彼は、この記憶の中に出没するあらゆる放埓の生活を、思い切って受用した事であろう。そうしてまた、如何に彼は、その放埓の生活の中に、復讐の挙を全然忘却した駘蕩《たいとう》たる瞬間を、味った事であろう。彼は己《おのれ》を欺いて、この事実を否定するには、余りに正直な人間であった。勿論この事実が不道徳なものだなどと云う事も、人間性に明な彼にとって、夢想さえ出来ない所である。従って、彼の放埓のすべてを、彼の忠義を尽す手段として激賞されるのは、不快であると共に、うしろめたい。
こう考えている内蔵
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