或日の大石内蔵助
芥川龍之介

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)障子《しょうじ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)元|浅野内匠頭《あさのたくみのかみ》家来

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「白+轢のつくり」、第3水準1−88−69]
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 立てきった障子《しょうじ》にはうららかな日の光がさして、嵯峨《さが》たる老木の梅の影が、何間《なんげん》かの明《あかる》みを、右の端から左の端まで画の如く鮮《あざやか》に領している。元|浅野内匠頭《あさのたくみのかみ》家来、当時|細川家《ほそかわけ》に御預り中の大石内蔵助良雄《おおいしくらのすけよしかつ》は、その障子を後《うしろ》にして、端然と膝を重ねたまま、さっきから書見に余念がない。書物は恐らく、細川家の家臣の一人が借してくれた三国誌の中の一冊であろう。
 九人一つ座敷にいる中《うち》で、片岡源五右衛門《かたおかげんごえもん》は、今し方|厠《かわや》へ立った。早水藤左衛門《はやみとうざえもん》は、下《しも》の間《ま》へ話しに行って、未《いまだ》にここへ帰らない。あとには、吉田忠左衛門《よしだちゅうざえもん》、原惣右衛門《はらそうえもん》、間瀬久太夫《ませきゅうだゆう》、小野寺十内《おのでらじゅうない》、堀部弥兵衛《ほりべやへえ》、間喜兵衛《はざまきへえ》の六人が、障子にさしている日影も忘れたように、あるいは書見に耽《ふけ》ったり、あるいは消息を認《したた》めたりしている。その六人が六人とも、五十歳以上の老人ばかり揃っていたせいか、まだ春の浅い座敷の中は、肌寒いばかりにもの静《しずか》である。時たま、しわぶきの声をさせるものがあっても、それは、かすかに漂《ただよ》っている墨の匂《におい》を動かすほどの音さえ立てない。
 内蔵助《くらのすけ》は、ふと眼を三国誌からはなして、遠い所を見るような眼をしながら、静に手を傍《かたわら》の火鉢の上にかざした。金網《かなあみ》をかけた火鉢の中には、いけてある炭の底に、うつくしい赤いものが、かんがりと灰を照らしている。その火気を感じると、内蔵助の心には、安らかな満足の情が、今更のようにあふれて来た。丁度、去年の極月《ごくげつ》十五日に、亡君の讐《あだ》を復して、泉岳寺《せんがくじ》へ引上げた時、彼|自《みずか》ら「あらたのし思いははるる身はすつる、うきよの月にかかる雲なし」と詠じた、その時の満足が帰って来たのである。
 赤穂《あこう》の城を退去して以来、二年に近い月日を、如何《いか》に彼は焦慮と画策《かくさく》との中《うち》に、費《ついや》した事であろう。動《やや》もすればはやり勝ちな、一党の客気《かっき》を控制《こうせい》して、徐《おもむろ》に機の熟するのを待っただけでも、並大抵《なみたいてい》な骨折りではない。しかも讐家《しゅうか》の放った細作《さいさく》は、絶えず彼の身辺を窺《うかが》っている。彼は放埓《ほうらつ》を装って、これらの細作の眼を欺くと共に、併せてまた、その放埓に欺かれた同志の疑惑をも解かなければならなかった。山科《やましな》や円山《まるやま》の謀議の昔を思い返せば、当時の苦衷が再び心の中によみ返って来る。――しかし、もうすべては行く処へ行きついた。
 もし、まだ片のつかないものがあるとすれば、それは一党四十七人に対する、公儀《こうぎ》の御沙汰《ごさた》だけである。が、その御沙汰があるのも、いずれ遠い事ではないのに違いない。そうだ。すべては行く処へ行きついた。それも単に、復讐の挙が成就《じょうじゅ》したと云うばかりではない。すべてが、彼の道徳上の要求と、ほとんど完全に一致するような形式で成就した。彼は、事業を完成した満足を味ったばかりでなく、道徳を体現した満足をも、同時に味う事が出来たのである。しかも、その満足は、復讐の目的から考えても、手段から考えても、良心の疚《やま》しさに曇らされる所は少しもない。彼として、これ以上の満足があり得ようか。……
 こう思いながら、内蔵助《くらのすけ》は眉をのべて、これも書見に倦《う》んだのか、書物を伏せた膝の上へ、指で手習いをしていた吉田忠左衛門に、火鉢のこちらから声をかけた。
「今日《きょう》は余程暖いようですな。」
「さようでございます。こうして居りましても、どうかすると、あまり暖いので、睡気《ねむけ》がさしそうでなりません。」
 内蔵助は微笑した。この正月の元旦に、富森助右衛門《とみのもりすけえもん》が、三杯の屠蘇《とそ》に酔って、「今日も春恥しからぬ寝武士かな」と吟じた、その句がふと念頭に浮んだからである。句意も、良雄《よしかつ》
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