僕は手段を定めた後も半ばは生に執着してゐた。従つて死に飛び入る為のスプリング・ボオドを必要とした。(僕は紅毛人たちの信ずるやうに自殺することを罪悪とは思つてゐない。仏陀は現に阿含経《あごんきやう》の中に彼の弟子の自殺を肯定してゐる。曲学阿世《きよくがくあせい》の徒はこの肯定にも「やむを得ない」場合の外はなどと言ふであらう。しかし第三者の目から見て「やむを得ない」場合と云ふのは見す見すより[#「より」に傍点]悲惨に死ななければならぬ非常の変の時にあるものではない。誰でも皆自殺するのは彼自身に「やむを得ない場合」だけに行ふのである。その前に敢然と自殺するものは寧《むし》ろ勇気に富んでゐなければならぬ。)このスプリング・ボオドの役に立つものは何と言つても女人である。クライストは彼の自殺する前に度たび彼の友だちに(男の)途《みち》づれになることを勧誘した。又ラシイヌもモリエエルやボアロオと一しよにセエヌ河に投身しようとしてゐる。しかし僕は不幸にもかう云ふ友だちを持つてゐない。唯僕の知つてゐる女人は僕と一しよに死なうとした。が、それは僕等[#「僕等」に傍点]の為には出来ない相談になつてしまつた。そのうちに僕はスプリング・ボオドなしに死に得る自信を生じた。それは誰も一しよに死ぬもののないことに絶望した為に起つた為ではない。寧《むし》ろ次第に感傷的になつた僕はたとひ死別するにもしろ、僕の妻を劬《いたは》りたいと思つたからである。同時に又僕一人自殺することは二人一しよに自殺するよりも容易であることを知つたからである。そこには又僕の自殺する時を自由に選ぶことの出来ると云ふ便宜もあつたのに違ひない。
最後に僕の工夫したのは家族たちに気づかれないやうに巧みに自殺することである。これは数箇月準備した後、兎に角或自信に到達した。(それ等の細部に亘《わた》ることは僕に好意を持つてゐる人々の為に書くわけには行かない。尤《もつと》もここに書いたにしろ、法律上の自殺|幇助罪《ほうじよざい》※[#始め二重括弧、1−2−54]このくらゐ滑稽な罪名はない。若しこの法律を適用すれば、どの位犯罪人の数を殖《ふ》やすことであらう。薬局や銃砲店や剃刀屋《かみそりや》はたとひ「知らない」と言つたにもせよ、我々人間の言葉や表情に我々の意志の現れる限り、多少の嫌疑を受けなければならぬ。のみならず社会や法律はそれ等自身自殺幇助罪を構成してゐる。最後にこの犯罪人たちは大抵は如何にもの優しい心臓を持つてゐることであらう。※[#終わり二重括弧、1−2−55]を構成しないことは確かである。)僕は冷やかにこの準備を終り、今は唯死と遊んでゐる。この先の僕の心もちは大抵マインレンデルの言葉に近いであらう。
我々人間は人間獣である為に動物的に死を怖れてゐる。所謂《いはゆる》生活力と云ふものは実は動物力の異名に過ぎない。僕も亦人間獣の一匹である。しかし食色にも倦《あ》いた所を見ると、次第に動物力を失つてゐるであらう。僕の今住んでゐるのは氷のやうに透《す》み渡つた、病的な神経の世界である。僕はゆうべ或売笑婦と一しよに彼女の賃金(!)の話をし、しみじみ「生きる為に生きてゐる」我々人間の哀れさを感じた。若しみづから甘んじて永久の眠りにはひることが出来れば、我々自身の為に幸福でないまでも平和であるには違ひない。しかし僕のいつ敢然と自殺出来るかは疑問である。唯自然はかう云ふ僕にはいつもよりも一層美しい。君は自然の美しいのを愛し、しかも自殺しようとする僕の矛盾を笑ふであらう。けれども自然の美しいのは僕の末期《まつご》の目に映るからである。僕は他人よりも見、愛し、且又理解した。それだけは苦しみを重ねた中にも多少僕には満足である。どうかこの手紙は僕の死後にも何年かは公表せずに措《お》いてくれ給へ。僕は或は病死のやうに自殺しないとも限らないのである。
附記。僕はエムペドクレスの伝を読み、みづから神としたい欲望の如何に古いものかを感じた。僕の手記は意識してゐる限り、みづから神としないものである。いや、みづから大凡下《だいぼんげ》の一人としてゐるものである。君はあの菩提樹《ぼだいじゆ》の下に「エトナのエムペドクレス」を論じ合つた二十年前を覚えてゐるであらう。僕はあの時代にはみづから神にしたい一人だつた。
[#地から2字上げ](昭和二年七月、遺稿)
底本:「現代日本文学大系43芥川龍之介集」筑摩書房
1968(昭和43)年8月25日初版第1刷発行
入力:j.utiyama
校正:小浜真由美
1998年4月20日公開
2004年2月16日修正
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