十 雨
彼は大きいベツドの上に彼女といろいろの話をしてゐた。寝室の窓の外は雨ふりだつた。浜木棉《はまゆふ》の花はこの雨の中にいつか腐つて行くらしかつた。彼女の顔は不相変《あひかはらず》月の光の中にゐるやうだつた。が、彼女と話してゐることは彼には退屈でないこともなかつた。彼は腹這《はらば》ひになつたまま、静かに一本の巻煙草に火をつけ、彼女と一しよに日を暮らすのも七年になつてゐることを思ひ出した。
「おれはこの女を愛してゐるだらうか?」
彼は彼自身にかう質問した。この答は彼自身を見守りつけた彼自身にも意外だつた。
「おれは未《いま》だに愛してゐる。」
三十一 大地震
それはどこか熟し切つた杏《あんず》の匂に近いものだつた。彼は焼けあとを歩きながら、かすかにこの匂を感じ、炎天に腐つた死骸の匂も存外悪くないと思つたりした。が、死骸の重なり重《かさな》つた池の前に立つて見ると、「酸鼻《さんび》」と云ふ言葉も感覚的に決して誇張でないことを発見した。殊に彼を動かしたのは十二三歳の子供の死骸だつた。彼はこの死骸を眺め、何か羨ましさに近いものを感じた。「神々に愛せらるるものは夭折《えうせつ》す」――かう云ふ言葉なども思ひ出した。彼の姉や異母弟はいづれも家を焼かれてゐた。しかし彼の姉の夫は偽証罪を犯した為に執行猶予中の体だつた。……
「誰も彼も死んでしまへば善《い》い。」
彼は焼け跡に佇《たたず》んだまま、しみじみかう思はずにはゐられなかつた。
三十二 喧嘩
彼は彼の異母弟と取り組み合ひの喧嘩をした。彼の弟は彼の為に圧迫を受け易いのに違ひなかつた。同時に又彼も彼の弟の為に自由を失つてゐるのに違ひなかつた。彼の親戚は彼の弟に「彼を見慣《みなら》へ」と言ひつづけてゐた。しかしそれは彼自身には手足を縛られるのも同じことだつた。彼等は取り組み合つたまま、とうとう縁先へ転《ころ》げて行つた。縁先の庭には百日紅《さるすべり》が一本、――彼は未だに覚えてゐる。――雨を持つた空の下に赤光りに花を盛り上げてゐた。
三十三 英雄
彼はヴオルテエルの家の窓からいつか高い山を見上げてゐた。氷河の懸つた山の上には禿鷹《はげたか》の影さへ見えなかつた。が、背の低い露西亜《ロシア》人が一人、執拗《しつえう》に山道を登りつづけてゐた。
ヴオルテエルの家も夜になつた後、彼は明るいランプの下にかう云ふ傾向詩を書いたりした。あの山道を登つて行つた露西亜人の姿を思ひ出しながら。……
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――誰よりも十戒を守つた君は
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誰よりも十戒を破つた君だ。
誰よりも民衆を愛した君は
誰よりも民衆を軽蔑した君だ。
誰よりも理想に燃え上つた君は
誰よりも現実を知つてゐた君だ。
君は僕等の東洋が生んだ
草花の匂のする電気機関車だ。――
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三十四 色彩
三十歳の彼はいつの間か或空き地を愛してゐた。そこには唯|苔《こけ》の生えた上に煉瓦や瓦の欠片《かけら》などが幾つも散らかつてゐるだけだつた。が、それは彼の目にはセザンヌの風景画と変りはなかつた。
彼はふと七八年前の彼の情熱を思ひ出した。同時に又彼の七八年前には色彩を知らなかつたのを発見した。
三十五 道化人形
彼はいつ死んでも悔いないやうに烈しい生活をするつもりだつた。が、不相変《あひかわらず》養父母や伯母に遠慮勝ちな生活をつづけてゐた。それは彼の生活に明暗の両面を造り出した。彼は或洋服屋の店に道化人形の立つてゐるのを見、どの位彼も道化人形に近いかと云ふことを考へたりした。が、意識の外の彼自身は、――言はば第二の彼自身はとうにかう云ふ心もちを或短篇の中に盛りこんでゐた。
三十六 倦怠
彼は或大学生と芒原《すすきはら》の中を歩いてゐた。
「君たちはまだ生活慾を盛に持つてゐるだらうね?」
「ええ、――だつてあなたでも……」
「ところが僕は持つてゐないんだよ。制作慾だけは持つてゐるけれども。」
それは彼の真情だつた。彼は実際いつの間にか生活に興味を失つてゐた。
「制作慾もやつぱり生活慾でせう。」
彼は何とも答へなかつた。芒原はいつか赤い穂の上にはつきりと噴火山を露《あらは》し出した。彼はこの噴火山に何か羨望《せんばう》に近いものを感じた。しかしそれは彼自身にもなぜと云ふことはわからなかつた。……
三十七 越し人
彼は彼と才力の上にも格闘出来る女に遭遇した。が、「越し人」等の抒情詩を作り、僅《わづ》かにこの危機を脱出した。それは何か木の幹に凍つた、かがやかしい雪を落すやうに切ない心もちのするものだつた。
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風に舞ひたるすげ笠の
何かは道に落ちざら
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