夕《ゆふべ》、南蛮寺《なんばんじ》の門前で、その姫君の輿《こし》の上に、一匹の悪魔が坐つてゐるのを見た。が、この悪魔は外《ほか》のそれとは違つて、玉のやうに美しい顔を持つてゐる。しかもこまねいた両手と云ひ、うなだれた頭《かしら》と云ひ、恰《あたか》も何事かに深く思ひ悩んでゐるらしい。
うるがん[#「うるがん」に傍点]は姫君の身を気づかつた。双親《ふたおや》と共に熱心な天主教《てんしゆけう》の信者である姫君が、悪魔に魅入《みい》られてゐると云ふ事は、唯事《ただごと》ではないと思つたのである。そこでこの伴天連《ばてれん》は、輿《こし》の側へ近づくと、忽《たちまち》尊い十字架《くるす》の力によつて難なく悪魔を捕へてしまつた。さうしてそれを南蛮寺の内陣《ないじん》へ、襟がみをつかみながらつれて来た。
内陣には御主《おんあるじ》耶蘇《ヤソ》基督《キリスト》の画像《ぐわざう》の前に、蝋燭《らふそく》の火が煤《くす》ぶりながらともつてゐる。うるがん[#「うるがん」に傍点]はその前に悪魔をひき据ゑて、何故《なぜ》それが姫君の輿の上に乗つてゐたか、厳しく仔細《しさい》を問ひただした。
「私《わたくし》はあの姫君《ひめぎみ》を堕落させようと思ひました。が、それと同時に、堕落させたくないとも思ひました。あの清らかな魂《たましひ》を見たものは、どうしてそれを地獄の火に穢《けが》す気がするでせう。私はその魂をいやが上にも清らかに曇りなくしたいと念じたのです。が、さうと思へば思ふ程、愈《いよいよ》堕落させたいと云ふ心もちもして来ます。その二つの心もちの間《あひだ》に迷ひながら、私はあの輿の上で、しみじみ私たちの運命を考へて居りました。もしさうでなかつたとしたら、あなたの影を見るより先に、恐らく地の底へでも姿を消して、かう云ふ憂《う》き目に遇《あ》ふ事は逃《のが》れてゐた事でせう。私たちは何時《いつ》でもさうなのです。堕落させたくないもの程、益《ますます》堕落させたいのです。これ程不思議な悲しさが又と外《ほか》にありませうか。私はこの悲しさを味《あじは》ふ度に、昔見た天国の朗《ほがらか》な光と、今見てゐる地獄のくら暗とが、私の小さな胸の中で一つになつてゐるやうな気がします。どうかさう云ふ私を憐んで下さい。私は寂しくつて仕方がありません。」
美しい顔をした悪魔は、かう云つて、涙を流した。……
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