。黒と白の外に赤や青の色もあるやうにプロレタリア精神にも反対せず味方でもないといふ中間的な立ち場もある。而してこの立ち場はブルヂヨア精神に対しても同様である。又文学の中の俳句などはたとへ作者がプロレタリアの精神に味方するといつても、その句の中にプロレタリアの精神を高調することはできない。又音楽でも軍歌のやうなものでプロレタリアの行進曲でも作れば一寸プロレタリアの音楽のやうに受けとれるがそれは軍歌であつて音楽の範囲外にある。かういふ風ノ芸術方面に於てその形式、本質のため必然的にプロレタリアの精神に味方しそれを表現できないものがある。この点自由であるといはれてゐる小説、戯曲でも恋愛を中心としたもので同時にプロレタリアの精神を高調させやうといつても無理であるといふやうにその芸術に何でもプロレタリアの精神が表現されてゐないからといつてそれをブルヂヨア芸術と呼ぶのは的に外れた考へである。故に明かにプロレタリア精神に反抗する意表に出でたものゝみがプロレタリア文学に対立すべきものである。
 さてプロレタリアの精神に味方したものに大体二通りあると思ふ。第一は宣伝を目的としたものと、第二に文芸を造る傍《かたはら》宣伝するものとがある。第二の部類にはシヨオの作など這入《はい》ると思ふ。しからばその宣伝とはなんであるかといふに多くの人は、第一に階級闘争の精神を眼目にし、戦ひに向かつて進むといふ力が宣伝の内容であり目的であるといふ。しかし実社会は非常に複雑してゐるのであつて、大まかに資本家とプロレタリアといふ風に画然と別れてゐない。一例を揚げていふにAといふ菓子屋はBといふ得意先きとの関係は資本家と労働者の対立に近いが、そのAなる菓子屋はCなる職人(菓子を造る)とは又自分が資本家になる関係におかれる。斯の如く所謂宣伝の対照もはつきりせずその宣伝のために迷惑を蒙る資本家でない人もある。それは兎に角としてプロレタリア文学は矢張りうまいものでなければならない。まづいものはいけない、なぜかといふに譬へプロレタリア文学は宣伝を陰に陽に主張してゐることによつて想像出来る如く、彼等の目的はプロレタリアの天下を将来させるための一つの啓蒙的な一時的なものであるといつても、将来は文学として立派なプロレタリア文学が出来るが、現在ではその踏み台だ。それでいゝ、それだからまずくてもいゝといふ論は立たないと思ふ。又あ
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