つた。
すると突然聞えたのは誰かのピアノを打つた音だつた。いや、「打つた」と言ふよりも寧ろ触つた音だつた。わたしは思はず足をゆるめ、荒涼としたあたりを眺めまはした。ピアノは丁度月の光に細長い鍵盤を仄めかせてゐた、あの藜の中にあるピアノは。――しかし人かげはどこにもなかつた。
それはたつた一|音《おん》だつた。が、ピアノには違ひなかつた。わたしは多少無気味になり、もう一度足を早めようとした。その時わたしの後ろにしたピアノは確かに又かすかに音を出した。わたしは勿論振りかへらずにさつさと足を早めつゞけた、湿気を孕んだ一陣の風のわたしを送るのを感じながら。……
わたしはこのピアノの音に超自然の解釈を加へるには余りにリアリストに違ひなかつた。成程人かげは見えなかつたにしろ、あの崩れた壁のあたりに猫でも潜んでゐたかも知れない。若し猫ではなかつたとすれば、――わたしはまだその外にも鼬だの蟇がへるだのを数へてゐた。けれども兎に角人手を借らずにピアノの鳴つたのは不思議だつた。
五日ばかりたつた後、わたしは同じ用件の為に同じ山手を通りかゝつた。ピアノは不相変ひつそりと藜の中に蹲つてゐた。桃色、水色
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