で二人を取巻いてぐるぐる巻きにした。それから驢馬の尻尾にくくりつけて又路を急いだ。
エチオピア王は縛られながら「殺すぞ」と云つて盗人を嚇したが、バルキスは冷い朝風に身をふるはせながら、未だ見ぬ物を見るやうに、唯ほほゑむばかりであつた。
おそろしい寂寞の中に、驢馬は蹄を鳴らしながら行つた。其中にそろそろ真昼の暑さを感ずるやうになつた。日が高くなつてから、盗人たちは二人の俘の縄を解いて岩の陰に坐らせた。それから黴た麺麭を投げてくれた。バルキスはひもじさうに食べたが、バルタザアルは見向きもしない。
女王が哂つた。盗人の頭は之を何故哂ふと訊ねた。
『今にね、お前たちを皆絞罪にしてやるのだと思ふとをかしくなるのだよ。』
『へん、手前の様な下司の女の口から大層な熱をふくぜ。どうだい、いろ女。お前はてつきりあの黒奴のいい人に己達の首をしめさせようと云ふのだらう』盗人の頭が大きな声でかう云つた。
バルタザアルは之をきくと火のやうに怒つた。そして矢庭にとびかかつて其盗人の頸を掴んだ。絞め殺し兼ねない勢である。
けれども相手はナイフを抜いて、王の体へ柄元迄づぶりとつき立てた。可哀さうに王は地に転《まろ》んで、最後の一瞥をバルキスの上に投げると、其儘視力を失つて仕舞つたのである。
三
此時人馬剣戟の響が騒然として起つた。バルキスには家来のアブナアが護衛兵の先頭に立つて女王を救ひに来たのが見えた。家来は女王が行方知れずになつたのを夜の中に聞いてゐたのである。
アブナアは三度バルキスの足下に拝伏して、それから女王を迎へる為に用意した輿を持つて来させた。其間に、護衛兵は盗人の手を悉く縛つてしまつた。
『お前さん、あたしはお前さん達を絞罪にすると云ひましたね。約束に※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]はないでせう』女王は盗人の頭に向つて、やさしい声でかう云つた。
此時アブナアの側に立つてゐた魔法師のセムボビチスと宦官のメンケラとが、おそろしい叫び声をあげた。王が腹にナイフを突立てられて身動きもせずに仆れてゐたからである。
二人はそつと王を抱き起した。薬物の学に精通してゐるセムボビチスは、王がまだ呼吸《いき》のある事がわかつた。そこでメンケラが王の唇から泡を拭つてゐる間に仮に傷口を繃帯した。それから二人で王を馬に括りつけ、静かに女王の宮殿へつれて行つた。
バルタザアルは十五日の間、人事不省に陥つたまゝ横になつてゐた。王は譫言に止度なく、煮え立つてゐる大鍋と谷あひの苔の事とを云ふのである。絶えず大きな声でバルキス、バルキスと叫ぶのである。やつと十六日目に王は眼を開いて床の側にゐるセムボビチスとメンケラとを見た。けれども女王は見えない。
『女王はどこにゐる? 女王は何をしてゐる?』
『陛下、女王はコマギイナの王と密室で謁見して居られます』とメンケラが答へた。
『きつと商品を交易する契約を致して居るのでございませう』と賢人のセムボビチスがつけ加へた。
『御機嫌を悪くなさいますな。陛下、御熱がまた上りますといけません。』
『己は女王に会はなければならぬ』バルタザアルは大きな声でかう云つた。さうして女王の部屋の方へと飛んで行つた。賢人も宦官も止める事が出来ない。女王の寝室に近づくと王は、コマギイナの王が来るのに遇つた。王は金に蔽はれて太陽の様に輝いてゐたのである。バルキスはほほゑみながら眼を閉ぢて、紫の臥榻《ぐわたふ》の上に横はつて居た。
『バルキス! バルキス!』とバルタザアルが呼んだ。けれども女王はふり向きもしない。唯一刻でも夢を延ばさうとしてゐる様に見える。バルタザアルは側へよつて女王の手をとつた。女王は素気なく其手を振離した。そして『何か御用?』と云つた。
『何の用だかわからないのかい』かう云つて黒人の王は涙を流した。女王は瞳を王の上に転じた。つれない、静かな眼なざしである。王は女王が何も彼も忘れて居るのだと思つた。そこであの小川の夜を思出させようとした。けれども女王はかう云ふのである。
『陛下、わたくしには陛下が何を仰有つていらつしやるのだか、まつたくわからないのでございますよ。陛下には椰子の酒が御体に合はないのでございませう。きつと夢を御覧になつたのでございますわ。』
『夢だ?』王は身悶えをして叫んだ。『お前の接吻が、己の体に創痕を残したナイフが夢だと云ふのか。夢だと?』
女王は身を起した。袍についてゐる宝石が霰のやうな音を立てて、きらきらと光るのである。
『陛下、丁度議会が始まる時刻でございます。わたくしには陛下の御酒機嫌の夢を御解き申上げる暇がございません。少し御休息遊ばしませ。では失礼致します。』
バルタザアルは立つては居られないやうな気がした。けれども此妖婦に弱みを見せてはならないと、根限りの力を尽して、自分の部屋へ駈けて帰つて来た。帰ると、王は卒倒した。そして傷口が又開いてしまつたのである。
四
王は三週間人事不省のまま横はつてゐたが、二十二日目に人心地がついて、メンケラと共に看病してゐたセムボビチスの手をとつた。王は泣きながらかう云ふのである。
『お前たち、お前たちは何と云ふ仕合せなのだらう。一人は年をとつてゐるし、一人は年よりも同じ事ではないか。けれども此世には幸福と云ふものは無い。皆悪いものばかりだ。何故と云ふがいい。恋も禍ならバルキスも不貞ではないか。』
『智慧は幸福を与へまする』とセムボビチスは答へた。
『己もさうして見ようと思つてゐる。が一刻も早くエチオピアへ帰らうではないか』バルタザアルはかう云つた。
王は愛するすべての物を失つたので、一身を智慧に捧げて魔法師の一人にならうと決心した。此決心は格別王に快楽を与へなかつたにしても、少くとも平静な心だけは回復してくれたのである。王は毎夜、魔法師のセムボビチスと宦官のメンケラと共に王宮の露台に坐して、地平線を遮つてそよりともせずに立つてゐる椰子の木を見つめたり、材木のやうにナイル河を下つて来る鰐の群を月あかりで見守つたりした。
『自然の美しさはたたへて倦む事を知りませぬ』とセムボビチスが云つた。
『それは確だ。しかし自然には其外に、椰子の木や鰐よりも美しい物があるのだ』王はバルキスの事を考へながらかう云つた。
けれ共年老つたセムボビチスが答へるには、
『勿論ナイル河の氾濫の様な現象もございます。併しそれは私がもう解釈致しました。人間は理解する為につくられたものでございます。』
『人間は愛する為に造られたものだ。世の中には解釈の出来ぬ事が沢山ある。』
歎息しながら、バルタザアルが云つた。
『それは何でございませうか』とセムボビチスが問ふと、王はかう答へた。
『女の心がはりだ。』
けれどもバルタザアルは魔法師にならうと決心したから、塔を一つ建てた。其の頂からは多くの王国と無辺の天空とが望まれるのである。塔は煉瓦造りですべての塔の上に高く聳えてゐる。落成するには二年の日子を費した。
バルタザアルは此塔の建築に父王の全財宝を傾けたのであつた。毎夜王は塔の頂に登つた。其処で賢人セムボビチスの指導の下に天文の研究をするのである。
『天上の星宿は人間の運命を示すものでございます』とセムボビチスが云つた。
『しかし其しるしはよく解らぬものだと云はねばなるまい。唯其研究をしてゐる間だけ己はバルキスの事を忘れてゐる。それが何よりの賜物だ』と王が答へた。
魔法師は、是非知らねばならぬ真理の一として、星は鋲のやうに蒼穹に固着してゐるものだと云ふことを教へた。それから又空には五の遊星がある。ベルとメロダクとネボは陽で、シンとミリタは陰だと云ふ事を教へた。魔法師は説明の歩をすすめて、
『銀はシンに相当致します。シンとは月の事でございます。又鉄はメロダクに、錫はベルに相当致します。』
バルタザアルはかう答へた。『己の望んでゐる知識と云ふのはそれだ。天文を研究してゐる間は、己はバルキスの事も思はなければ、其他の地上の塵事をも忘れてゐる。学問はよいものだ。学問は人間を考へさせずに置くものだ。セムボビチス、お前は己に知識を教へてくれるがよい。知識は人間の持つてゐるすべての感情を破壊するものだ。知識を教へてくれるならば、己はお前に万民の瞻仰《せんぎやう》する名誉を与へてやる。』
之がセムボビチスの王に知識を教へた理由であつた。
魔法師は王にアストラムプシコスやゴブリアスやバザタスの道に従つて魔術の力を教へた。バルタザアルは太陽の十二宮を研究すればする程、バルキスの事を忘れて行つた。メンケラは之れを見て歓喜にみたされたのである。
『陛下、バルキス女王の金の袍の下には、山羊の様な趾の裂けた足があるさうでございます。』
『誰がそんな馬鹿な事を云つた。』
『陛下、シバとエチオピアでは誰でも申す事でございます。バルキス女王の片|脛《はぎ》は毛だらけで、片足は二つに裂けた黒い爪ぢやと皆が申して居ります』と宦官はかう答へるのである。
バルタザアルは肩を聳かした。バルキスが足でも脛でも外の女と変りなく、其上点の打ち所の無い程美しいのを知つてゐるからである。けれども其何でもない考があのやうに深く愛してゐた女の記憶を傷けた。王はバルキスの美しさが、何もしない人々の想像では瑕物になつてゐると云ふ事を考へると、今更のやうに女王が嫌になつた。事実は玉のやうに美しいにせよ、異類で通つてゐる女と関係したのだと思ふと、王ははげしい嫌悪の情を感ぜずにはゐられなかつた。二度とバルキスに逢ふ気は起らない。バルタザアルは単純な心を持つてゐた。けれども恋と云ふものは複雑な情緒だつたのである。
其日から王は魔術にも星占術にも長足の進歩をした。綿密な注意を払つて星の交会を研究したり、セムボビチスと寸毫も変らず正確に星占図を引いたりする。
『セムボビチス、お前は己の星占図の真だと云ふ事を首にかけてもうけ合ふ心算か』かう王が尋ねたことがある。
『陛下、学問に間違ひはございませぬ。けれども、学者は度々間違ひを致します』と賢人セムボビチスが答へた。
バルタザアルはすぐれた官能を持つてゐた。そこで『真なる物のみが聖である。聖なる物は人間の智を絶してゐる。人間は空しく真理を探求するに過ぎない。けれども己は空に新しい星を発見した。美しい星である。生きてゐる様にも思はれる。きらめく時はやさしく瞬く天上の眼のやうに見える。己はそれが呼んでゐる様な気がする。此星の下に生れるものは何と云ふ幸福だらう。セムボビチス、此愛らしい美しい星がどんなに己たちを照してゐるか見たがよい』とかう云つた。
けれどもセムボビチスは星を見なかつた。それは見ようと思はなかつたからである。賢くしかも年老いた魔法師は新奇を好まない。
夜の沈黙の中にバルタザアルは独り繰返した。『此星の下に生れたものは何と云ふ幸福だらう。』
五
バルタザアル王がバルキスを愛さなくなつたと云ふ噂がエチオピアと近隣の王国とに播《ひろま》つた。
其知らせがシバの国に伝はると、バルキスは裏切でもされた様に腹を立てた。そしてシバの都に自分の国も忘れてうかうかと時を過してゐたコマギイナの王の所へ駈けて行つた。
『あなた、今あたしが何を聞いたか御存じ? バルタザアルがもうあたしを愛さないのでございますとさ。』
『そんな事は何でもないぢやないか。己達はお互に愛しあつてゐるのだから。』
とコマギイナの王が答へた。
『だつて、あなたはあの黒奴がわたくしを侮辱したとはお思ひになりませんの。』
『さうは思はないね。』
そこで女王は王をさんざん辱めて目通りを却けた。それから宰相に云ひつけて、エチオピアへ旅の支度をさせた。
『わたし達は今夜立つのだよ。日暮迄に支度が出来ないと、お前の首を斬るからさうお思ひ。』
けれども独りになると女王はさめざめと泣きはじめた。『わたくしはあの人を恋してゐる。あの人はもうわたしを思つてゐないのだ。それだのにわたしはあの人を恋してゐる』女王はかう云つてまごころから歎息をついたのであつた。
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