ノに苛《さいな》まれたが、わしの苦悶に動かされたのであらう、彼女は、丁度死なねばならぬ事を知つた者の末期《まつご》の微笑のやうに、悲しく又やさしく、わしの顔を見てほゝ笑んだ。
或朝、わしは彼女の寝床の傍に坐つて、直《すぐ》側《そば》に置いてある小さな食卓で朝飯を認めてゐた。それはわしが一分でも彼女の側《そば》を離れたくないと思つたからである。で、或る果物を切らうとした所が、わしは誤つて稍々深くわしの指を傷けた。すると血がすぐに小さな鮮紅の玉になつて流れ出したが、其滴が二滴三滴、クラリモンドにかゝつたと思ふと彼女の眼は忽ちに輝いて、其顔にも亦、わしが嘗て見た事の無いやうな、荒々しい、恐しい喜びの表情が現れた。彼女は忽ち獣の如く軽快に、寝床から躍り出て――丁度猿か猫のやうに軽快に――わしの傷口に飛びつくと、云ひ難い愉快を感じるやうに、わしの血をすゝり始めた。しかも彼女は静かに注意しつゝ、恰も鑑定上手《めきゝじやうず》が、セレスやシラキュウズの酒を味ふやうに、其小さな口に何杯となく啜つて飽かないのである。と、次第に彼女の瞼は垂れ、緑色の眼の瞳は円いと云ふよりも、寧ろ楕円になつた。そしてわし
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