nめたのである。わしは、極力それを打消さうと努めたが、わしの黙想には常に彼女の影が伴つて来た。或日暮にわしが黄楊《つげ》の木にくぎられた路に沿うて、わしの家の小さな庭を散歩してゐると、気のせゐか楡の木の陰にわしと同じやうに歩いてゐる女の姿が見え、しかも其楡の葉の間からは、海のやうな緑色の眼の輝いてゐるのが見えた。併しそれも幻に過ぎなかつたらしく、庭の向う側へまはつて見ると唯、砂地の路の上に足跡が一つ残つてゐるばかりであつた――が其足跡は、子供の足跡かと思はれる程小さかつた。其癖庭は高い塀に囲まれてゐるのである。わしは庭の隅と云ふ隅を探して見たが、誰一人見附からない。わしにはこれが不思議に思はれてならなかつたが、其後起つた奇怪な事に比べると、之などは全く何でも無かつたのである。
 満一年間、わしはわしの職務上の義務を、最も厳格な精密さを以て果しながら、祈祷をしたり、断食をしたり、説教をしたり、病人に霊魂の扶《たす》けを与へたり、又屡々わし自身が其日の生活にも差支へる位、施しをしたりして暮してゐた。しかしわしは心の中にはげしい焦立《いらだゝ》しさを感じてゐた。そして天恵の泉も、わしには湧か
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