ノ驚いた蛇か孔雀のやうな、をのゝくやうな嬌態《しな》を作つて、首をもたげる。すると銀の格子細工のやうに頸を捲いてゐる高いレースの襞襟《ひだえり》がをのゝくやうに動くのである。
 彼女は橙色がかつた真紅の天鵞絨《ビロード》の袍を着てゐた。其|黄鼬《てん》の毛皮のついた、広い袖口からは、限りなく優しい、上品な手が、覗いてゐる。手は|曙の女神《オーロラ》の指のやうに、光を透すかと思はれる程、清らかなのである。
 凡て是等の事柄を一つ/\わしは昨日の如く思ひ返す事が出来る。何故と云へば其時、わしはどぎまぎしながらも、何一つ見落すやうな事をしなかつたからである。ほんの微かな陰影でも、顋の先の一寸した黒い点でも、唇の隅の有るか無いかわからない程の生毛《うぶげ》でも、額の上にある天鵞絨のやうな毛でも、頬の上に落ちる睫毛《まつげ》のゆらめく影でも、何でもわしは驚く程明瞭な知覚を以て、注意する事が出来た。
 そしてわしは凝視を続けながら、わしの心の中に、今迄鎖されてゐた門をわしが開いてゐるのを感じた。長い間塞がれてゐた孔が開けて、内部の見知らない景色を垣間見《かいまみ》る事が出来たのである。人生は忽ち全く新奇な光景を、わしの前に示してくれた。わしは、今新しい世界と新しい事物の秩序との中に生れて来るのであつた。
 すると恐しい苦痛がわしの心を、赤熱した釘抜のやうに苛《さいな》みはじめた。一|分《ぷん》一分が、わしには一秒であると共に又一世紀であるやうに思はれた。此間に式が進んで、わしは間も無く、わしの新たに生れた欲望が烈しく、闖入しようとしてゐた世界から、遠くへ引離されてしまつたのである。わしは「否」と云ひたい所を「然り」と答へた。これはわしの心の中にある凡ての物がわしの霊魂に加へた舌の暴行に対して極力反抗したが其甲斐がなかつたのである。恐らく、多くの少女が断然父母の定めた夫を拒絶する心算《つもり》で、祭壇へ歩んで行くのにも関らず、一人として其目的を果す者の無いのも、かうした訳からに相違ない。そして多くの燐れな新参の僧侶が誓言を述べに呼ばれる時には、面※[#「巾+白」、第4水準2−8−83]《ヴェール》をずた/\に裂く決心をしてゐながら、阿容々々とそれを取つてしまふのも亦確にかうした訳からである。かくして人は、其処にゐる凡ての人々に対して大なる誹謗《ひばう》の声を挙げる事を敢てしないと共に、又多くの人々の期待を欺く事も敢てしない。凡ての夫等の人々の眼、凡ての夫等の人々の意志は、恰も鉛の如く君の上に蔽ひかゝるやうに思はれるのである。それのみならず、規則も正しく定まつてゐれば、万事が予め、完全に整つて、しかも多少必然的に避ける事の出来ないやうに出来上つてゐるので、個人の意志は事情の重みに屈従して遂には全く破壊されてしまふのである。
 式の進むのにつれて、其知らぬ美人の顔も表情が違つて来た。彼女の顔色は、最初は撫愛するやうな優しさを示してゐたが、今は恰もそれを理解させる事が出来ないのを、憎み且つ恥づるやうな容子に変つたのである。
 山をも抜くに足りる意志の力を奮つて、わしは、僧侶などになり度く無いと叫ばうとした。が、どうしてもそれが出来なかつた。わしには舌が上顎に附着してしまつたやうな気がしたのである。わしは否定の綴音を一つでも洩して、わしの意志を表白する事すら出来なかつた、わしは眼が醒めてゐながら、生命《いのち》にも関はる一語を叫ばうとして、魘《うな》されてゐる人間のやうな心持がした。
 彼女もわしの殉教の苦しみを知つてゐるかの如くに見えた。そして恰も、わしを励ますやうに、最も神聖な約束に満ちた眼色《めつき》をして見せるのである。彼女の眼が詩なら彼女の一瞥は正に唄であつた。
 彼女はわしにかう云つてくれる。「貴方《あなた》が私のものになる思召しなら、私は貴方を天国にゐる神様より仕合せにしてあげます。天使たちでさへ貴方を嫉むでせう。貴方は貴方を包まうとする経帷子《きやうかたびら》を裂いておしまひなさい。私は『美』です、『若さ』です、『生命』です。私の所へいらつしやい。エホバはその代りに何を貴方に呉れるのでせう? 私たちの命は夢のやうに、永久の接吻の中に流れて行きます。其聖杯の葡萄酒を投げすてゝおしまひなさい。さうすれば貴方は自由です。私は貴方を『知られざる島』へつれて行つてあげます。貴方は、銀の天幕の下で厚い金の床の上で、私の胸にお眠りなさい。私は貴方を愛してゐるのですから。私は貴方の神の手から貴方を離してしまひたいのですから。貴方の神の前では、大ぜいの尊い心性《こゝろばへ》の人たちが、愛の血を流します。けれども其血は神のゐる玉座の階《きざはし》にさへとゞきません。」
 是等の語は、わしの耳に無限の情味にあふれた諧律を作つて漂つて来るやうに思はれた。そ
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