トゐる事だ。云はゞ君の着物が、君の亡骸《なきがら》を納めた柩の棺布《かけぎぬ》の役に立つのである。
 わしは今更のやうにわしの生命が、丁度地下の湖のやうに、拡がりつゝ溢れつゝ水嵩を増して来るのを感ずる。わしの血は烈しくわしの動脈をめぐつて躍り上る。わしの久しく抑圧してゐた青春は、千年に一度花の咲く蘆薈のやうに、生々と萌え出でて迅雷の響と共に花を開くのだ。
 クラリモンドに、再び逢ふ為にわしは何をする事が出来るのだらう。わしは市にゐる人を一人も知らない。それでどうして研究室を去る口実が得られよう。わしは暫くでも此処に止つてゐられさうもない。唯、待ち遠いのは、わしが今後就任すべき牧師補の辞令ばかりである。わしは窓《まど》の鉄格子を取去らうと試みた。けれども窓は地を離れる事が遠いので、梯子が無ければ、かうして逃げるなどと云ふ事を考へるだけ愚だと気がついた、其上、わしが夜に乗じて其処から逃げる事が出来たとしても、其後どうして錯雑した街路の迷宮を、わしの思ふ所へ辿り着く事が出来るだらう。多くの人々には全く無意味に思はれる是等の凡ての事が、昨日始めて恋に落ちた、経験も無く、金も無く、美しい着物も無い燐れな学僧のわしには、偉大な事のやうに思はれたのである。わしは恋の闇に迷ひながら、かう自ら叫んだ。「あゝ、わしが僧侶で無かつたなら、わしは彼女を毎日見る事が出来るのだ、彼女の恋人にも彼女の夫にもなれるのだ。さうしたら此陰気な法衣に包まれてゐる代りに、外の美しい騎士のやうに絹と天鵞絨の袍を着て、金の鎖を下げて、剣を佩いて、美しい鳥の羽毛を着《つ》けるやうになるだらう。わしの髪も、短く刈られてしまふ代りに、波立ちながら渦を巻いて、わしの頸の上に垂れるだらう。わしの髭にも美しく蝋を引くだらう。そしてわしは一廉《ひとかど》の貴公子になれるのだ。」それを唯、祭壇の前で一時間を過した為に、忙しく口にした五六の語の為に、わしは永久に生きてゐる人間の仲間から追払はれて、わし自身の墓石に封をするやうな事になつたのだ。
 わしは窓の所へ行つた。空は青く美しい、木は春の着物を着てゐる。わしには自然が皮肉な歓喜を飾り立てゝゐるやうに見えた。広場には人が一杯ゐる。行く者もある、来る者もある、若い遊冶郎と若い美人とが二人づつ、茂みや花園の方へぶら/\歩いて行くのも見える。愉快らしい青年が、楽しさうに「将進酒《しやうしんしゆ》」の畳句《でふく》を唄ひ連《つ》れて歩むのも見える、――それは悉くわしの悲哀と寂寞とに辛《つら》い対照を造る愉悦、興奮、生活、活動の画図である。門の階段の上には若い母親が其子供と遊びながら坐つてゐる。母親は、未だ乳の滴が真珠のやうについてゐる子供の小さな薔薇色の唇に接吻をする。そして子供をあやす為に、唯女親のみが発明する事の出来る神聖な様々のとぼけた事をする。父親は少し離れて佇みながら此愛すべき二人を眺めて微笑を洩してゐる。それが両腕を組んだ中に其喜をぢつと胸に抱き締めてゐるやうに見える。わしは之を見てゐるのに忍びなかつた。そこで手荒く窓を鎖《とざ》して床の上に荒々しく身を横へた。わしの心は恐しい憎悪と嫉妬とに満ちてゐたのである。そして丁度十日も食を得なかつた虎のやうに、わしはわしの指を噛み、又わしの夜着を噛んだ。わしは、わしがどれ丈かうしてゐたか知らない。が、遂に痙攣的な怒りの発作に襲はれて、床の上で身を悶えてゐると急に僧院長《アベ》、セラピオンが室の中央に直立して、ぢつとわしを注視してゐるのを認めた。わしは、慚愧に堪へないで、頭を胸の上に垂れた。そして両手で顔を蔽つた。
「ロミュアルよ、わしの友達よ、何か恐しい事がお前の心の中に起つてゐるのではないか。」数分の沈黙の後にセラピオンが云つた。「お前のする事はわしには少しもわからない。お前は――何時もあのやうに静な、あのやうに清浄な、あの様に温和《おとな》しい――お前が野獣のやうに部屋の中で怒り狂つてゐるではないか。気をつけるがよい。兄弟よ――悪魔の暗示には耳を傾けぬがよい。悪魔は、お前が永久に身を主《しゆ》に捧げたのを憤つて、お前のまはりを餌食を探す狼のやうに這ひまはりながら、お前を捕へる最後の努力をしてゐるのぢや。征服されるよりは、祈祷を胸当てにして苦行を楯にして、勇士のやうに戦ふがよい。さうすれば必ずお前は悪魔に勝つ事が出来るだらう。徳行は、誘惑によつて試みられなければならない。黄金は試金者の手を経て一層純な物になる。恐れぬがよい、勇気を落さぬやうにするがよい。最も忠実な、最も篤信な人々は、屡々《しばしば》このやうな誘惑を受けるものぢや。祈祷をしろ、断食をしろ、黙想に耽れ、さうすれば悪魔は自《おのづか》ら離れるだらう。」
 セラピオンの語は、わしを平常《ふだん》のわしに帰してくれた。そして少しはわ
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