ラに、霊魂を失ふやうな迷には陥らぬやうにならう。此策は必ずお前を救ふに相違ないて。」わしは此二重生活に困憊してゐたので、貴公子か僧侶かどちらが幻惑の犠牲だかを確め度いばかりに直に之を快諾した。わしは全くわしの心の中にゐる二人の男の一人を、もう一人の利益の為に殺すか、又は二人共殺すか、どちらか一つにする決心でゐた。それは此様な怖しい存在は続けられる事も、堪へられる事も出来なかつたからである。そこで僧院長《アベ》セラピオンは鶴嘴と挺《てこ》と角燈とを整へて、わし達二人は真夜中に場所も位置も彼のよく知つてゐる――の墓地へ出かけたのであつた。暗い角燈の光を五六の墓石の碑銘に向けた後に、わし達は遂に、半大きな雑草に掩はれて、其上又苔と寄生植物とに侵された大きな板石の前に出た。そして其上に、わし達は下のやうな墓碑銘の首句を探り読む事が出来たのである。
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女性《によしやう》の中の最も美しき女性として
生ける日に誉ありし
クラリモンドこそ此処《ここ》に眠れ
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「確に此処ぢや。」とセラピオンが呟いた。そして角燈を地上に置くと、石の端の下へ挺《てこ》の先を押入れて、其石を擡げ始めた。石が自由になると彼は更に寄生植物を取除《とりの》けにかゝつた。わしは夜よりも暗く、夜よりも更に語《ことば》なく、傍に立つて、ぢつと彼のする事を見戍つた。其間に彼は其凄惨な労働に腰をかゞめて、汗にぬれながら喘いでゐる。わしには彼の苦しさうに吐く息が、末期の痰のつまる音のやうな調子を持つてゐるかと疑はれた。それは真に幽怪な光景であつた。外から誰でもわし達を見る人があつたなら、其人はわし達を神の僧侶と思ふよりは寧ろ涜神の痴者《しれもの》が経帷子《きやうかたびら》を盗む者と思つたに相違ない。セラピオンの熱心には、執拗な酷烈な何物かがあつて、それが彼に天使とか使徒とか云ふものよりも却つて邪鬼の形相を与へてゐた。其大きな、鷲のやうな顔は、角燈の光で、鋭い浮彫りを刻んでゐる。峻厳な目鼻立ちと共に、不快な空想を誘ふやうな、恐る可き何物かを有してゐるのである。わしは氷のやうな汗が大きな粒になつてわしの顔に湧いて来たのを感じた。わしの髪は恐しい畏怖の為によだつてゐる。わしの心の底では、辛辣なセラピオンの行が、憎むべき神聖冒涜の如く感じてゐる。わしは、頭上に油然と流れてゐる黒雲の内臓
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