鴻~ュアル。」
かう云つて僧院長《アベ》セラピオンは静かに戸口へ歩んで行つた。わしは其時二度と彼に会はなかつた。それは彼が殆んど直にS――へ帰つたからである。
わしは全く健康も恢復すれば、又日頃の職務に服する事も出来る様になつた。がクラリモンドの記憶と老年の僧院長《アベ》の語とは一刻もわしを離れない。けれども格別、彼の気味の悪い予言を実現するやうな大事件も起らなかつたので、わしは彼の掛念もわしの恐怖も、誇張されたのに過ぎないと信じるやうになつた。すると、ある夜、不思議な夢を見た。それはわしが眠るか眠らないのに、寝床の帳《とばり》の輪が、鋭い音を立てゝ、其輪のかゝつてゐる棒の上をすべつたので、わしは帳が開いたなとかう思つた。そこで素早《すばや》く肘をついて起き上ると、わしの前に真直に立つてゐる女の影がある。わしは直にそのクラリモンドなのを知つた。彼女は手に、墓の中に置くやうな形をした小さなランプを持つてゐる。その光に霑された彼女の指は、薔薇色にすきとほつて、それが亦次第に不透明な、牛乳のやうに白い、裸身《はだかみ》の腕に溶けこんでゐる。彼女の着てゐるのは、末期《まつご》の床の上に横はつてゐた時に彼女を包んでゐた、リンネルの経帷子である。彼女はこの様にみすぼらしい衣服を纏ふのを恥ぢるやうに、其リンネルの褶に胸をかくさうとしたものの、彼女の小さな手は其役に立たなかつた。彼女は其経帷子の色がランプの青ざめた光の中で彼女の肉の色と一つになる程白いのである。彼女の肉体のあらゆる輪廓を現すやうな、しなやかな、織物に包まれた彼女の姿は、生きた女と云ふよりも寧ろ美しい古の浴みする女の大理石像のやうに眺められる。が、死んでゐるにせよ、生きてゐるにせよ、石像にせよ女にせよ、影にせよ肉体にせよ、彼女の美しさは依然として美しい。唯違ふのは彼女の眼の緑色の光が、前よりも輝かないのと嘗ては燃えたつやうな真紅《しんく》の唇が、今は其頬の色のやうな、微かなやさしい薔薇色に染んでゐるとの二つである。わしが前に気の附いた、髪にさしてある小さな青い花も今は見る影もなく枯れ凋んで、殆どのこらず葉を振ひつくしてゐるが、之とても彼女の愛らしさを妨げる事はない――彼女は、此事の性質が不思議なのにも拘らず、又わしの室へはひつて来た様子が奇怪なのにも関らず、暫くはわしが何等の恐怖をも感じなかつた程、愛らしく見えた
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