「。わしの野心は、之以上に高い目標を認める事が出来なかつたのである。
わしが君に此様な事を云ふのは、わしの身の上に起つた事が、順当に行けば決して起らなかつたと云ふ事を知らせる為めに云ふのである。そしてわしが、不可解な蠱惑《こわく》の犠牲であつたと云ふ事を理解して貰ふ為めに云ふのである。
終に当日が来た。わしは、自分が空に浮んでゐるか、肩に翼が生えたかと疑はれる程、軽快な足取りで、教会へ歩いて行つた。わしには、自分が天使であるかの如く思はれた。そして、わしの同輩の、真面目な考深い顔をしてゐるのが、如何にも不思議に思はれた。それは教会にも、わしの同輩が五六人ゐたからである。わしは一夜を祈祷に明した後なので、殆ど恍惚として一切を忘れようとしてゐた。年をとつた僧正も、わしには「永遠」に倚《よ》つてゐる神の如くに見えた。わしは実に、殿堂の穹窿《きゆうりゆう》を透《すか》して、天国を望む事が出来たのである。
あの式の個条は君もよく知つてゐる――祓浄式、二つの形式の下に行はれる聖餐式、「改宗者の膏《あぶら》」を手の掌《ひら》に塗る式、それから、僧正と一しよに恭しく、神の前へ犠牲を捧げる式……
あゝ、ヨブが「軽忽《きやうこつ》なる者は、眼を以て聖約を為さざる者なり」と云つたのは、真理である。わしは不図、其時迄下を向いてゐた頭を挙げて、わしの前にゐる女を見た。女はわしが触れる事が出来るかと思はれる程、近くにゐる――が実際は、わしから可成離れて、内陣のずつと向うの欄干の辺《あたり》にゐたのである――年も若く、容貌《きりやう》も驚くばかり美しい。そして立派な着物迄着てゐる。丁度、其時わしはわしの眼から、急に鱗が落ちたやうな気がした。わしは、思ひがけなく明を得た盲人のやうな心持になつたのである。一瞬間以前には、光彩に溢れてゐた僧正も、急に何処かへ行つてしまへば、金色の燭架の上の蝋燭も、暁の星のやうに青ざめて、わしには無限の闇黒が、全寺院を領したやうに思はれた。そして其美しい女は、其闇黒を背景に燦爛とした浮彫になつて、丁度天使の来迎を仰ぐやうに、わしの眼の前に現れて来た。彼女は、自ら輝いてゐるやうに、しかも光を受けてゐると云ふよりは、自ら光を放つてゐるやうに見えたのである。
わしは眼を閉ぢた。そして二度と再び眼をあけまいと決心した。わしは外界の事物の影響を蒙るのを恐れてゐた。それは
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