Q台の上へ横になつてゐた。先住の老犬が、夜着の外へ垂れたわしの手を舐めてゐる。バルバラは老年と不安とでふるへながら、抽斗《ひきだし》をあけたりしめたり、杯の中へ粉薬を入れたりして、忙しく室の中を歩きまはつてゐる。が、わしが眼を開いたのを見ると彼女が喜びの叫を上げれば、犬も吠え立てゝ尾を掉つた。けれどもわしは未だ疲れてゐたので、一口もきく事も出来なければ、身を動かす事も出来なかつた。其後はわしは、わしが微かな呼吸の外は生きてゐる様子もなく、此儘で三日間寝てゐたと云ふ事を知つた。其三日間はわしは殆ど何事も記憶してゐない。バルバラは、わしが牧師館を出た夜に訪《たづ》ねて来たのと同じ銅色《あかがねいろ》の顔の男が、次の朝、戸をしめた輿にのせてわしを連れて来て、それから直ぐに行つてしまつたと云ふ事を聞いた。わしがきれ/″\な考を思合せる事が出来るやうになつた時に、わしは其恐しい夜の凡ての出来事を心の中に思ひ浮べた。わしは初め或魔術的な幻惑の犠牲になつたのだと思つたが、間も無く夫《そ》れでも真実な適確な事実とする事の出来る他の事情を思出したので、此考を許す事も出来なくなつて来た。わしは夢を見てゐたのだとは信じられない。何故と云へばバルバラもわしと同じやうに、二頭の黒馬をつれた見知らぬ男を見て、其男の形なり風采なりを、正確に細かい所迄述べる事が出来たからである。其癖、わしがクラリモンドに再会した城の様子に合ふやうな城の、此近所にある事を知つてゐる者も一人も無い。
或朝、わしはわしの室で僧院長《アベ》セラピオンに会つた。バルバラもわしの病気だと云ふ事を告げたので、急いで見舞に来てくれたのである。急いで来てくれたのは、彼から云へばわしに対する愛情ある興味を証拠立てゝゐるのであるが、其訪問は、当然わしの感ずべき愉快さへも与へてくれなかつた。僧院長《アベ》セラピオンはその凝視の中に、何処となく洞察を恣《ほしいまま》にするやうな、審問をしてゐるやうな様子を備へてゐるので、わしは非常に間《ま》が悪かつた。彼と対《むか》ひあつてゐる丈でも、わしは当惑と有罪の感じを去る事が出来ないのである。一目見て彼は、わしの心中の苦痛を察したのに違ひない。わしは実に此洞察力の為に彼を憎んだのであつた。
彼は偽善者のやうな優しい調子でわしの健康を尋ねながら、絶えず其獅子のやうな黄色い大きな眼をわしの上に注い
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