痰「僧侶の注意が一寸他に向いてゐる隙を見て、空想的な衣裳を着た、黒人の扈従《こしやう》がわしの側《そば》へやつて来た。そして歩きながら、わしの手に小さな金縁の手帳を忍ばせると同時に、それを隠せと云ふ相図をした。わしはそれを袖の中に隠した。そしてわしの部屋へ帰つて独りになるまで、そこにしまつて置いた。それからわしは其|控金《とめがね》を開いた。中には紙が二枚はひつてゐる。其紙にはかう書いてあつた。「クラリモンド・コンチニの宮にて」当時わしは、世間の事に疎かつたので、クラリモンドの名さへ、有名だつたのにも関らず、耳にした事は一度も無かつた。そして又コンチニの宮が何処にあるかと云ふ事も、一向に分らなかつた。そこでわしは何度となく推量を逞くして見た。そして推量を重ねる度に想像は益々方外になつたが、実際、わしは唯もう一度、彼女に逢へさへするならば、彼女が貴夫人であらうと、娼婦であらうと、それは大して構ひもしなかつたのである。
わしの恋は、僅一時間程経つ内に、抜き難い根を下ろして了つた。わしは其恋を思切らうなどとは夢にも思はなかつた。わしには其様な事は、全然不可能だとしか信じられなかつた。彼女が一目見たばかりにわしの性質は一変してしまつたのである。彼女は己の意志をわしの生命の中に吹き込んだ。そしてわしはもうわし自身の肉体の中に生活しないで、彼女の肉体の中に、しかも彼女の為に生活するやうになつた。わしはわしの手の、彼女の触れた所を接吻した。わしは何時間も続けさまに、彼女の名を繰返して呼んで見た。何時でも眼さへ閉ぢればわしには彼女の姿が其処にゐるやうにはつきりと見えるのである。わしは彼女が教会の玄関で、わしの耳に囁いた語を反覆した。「不仕合せな方ね、不仕合せな方ね。何と云ふ事をなすつたの。」わしは遂に、わしの現状の恐しさを、判然と理解する事が出来た。わしの今、就いた職務の恐る可き厳粛な制限が、明かにわしの前に暴露された。僧侶になる!――それは独身でゐると云ふ事だ。決して恋をしないと云ふ事だ。性《セックス》とか年齢とかの区別を構はなくなる事だ。凡ての美から背き去る事だ。眼を抉りぬいてしまふ事だ。永久に寺院とか僧院とかの冷い影の中に蹲つて隠れてゐる事だ。見知らない屍体に番をされてゐる事だ。死にかゝつてゐる人間ばかり訪ねて行く事だ。そして己自身の死を悼む喪服として、何時でも黒い法衣を着
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