ホテルの一室に大勢《おおぜい》の男女《なんにょ》に囲《かこ》まれたまま、トランプを弄《もてあそ》んでいるイイナである。黒と赤との着物を着たイイナはジプシイ占《うらな》いをしていると見え、T君にほほ笑《え》みかけながら、「今度はあなたの運《うん》を見て上げましょう」と言った。(あるいは言ったのだと云うことである。ダア以外の露西亜《ロシア》語を知らない僕は勿論十二箇国の言葉に通じたT君に翻訳して貰うほかはない。)それからトランプをまくって見た後《のち》、「あなたはあの人よりも幸福ですよ。あなたの愛する人と結婚出来ます」と言った。あの人と云うのはイイナの側に誰かと話していた露西亜《ロシア》人である。僕は不幸にも「あの人」の顔だの服装だのを覚えていない。わずかに僕が覚えているのは胸に挿《さ》していた石竹《せきちく》だけである。イイナの愛を失ったために首を縊《くく》って死んだと云うのはあの晩の「あの人」ではなかったであろうか?……
「それじゃ今夜は出ないはずだ。」
「好《い》い加減に外へ出て一杯《いっぱい》やるか?」
T君も勿論イイナ党である。
「まあ、もう一幕見て行こうじゃないか?」
僕等がダンチェンコと話したりしたのは恐らくはこの幕合《まくあ》いだったのであろう。
次の幕も僕等には退屈だった。しかし僕等が席についてまだ五分とたたないうちに外国人が五六人ちょうど僕等の正面に当る向う側のボックスへはいって来た。しかも彼等のまっ先に立ったのは紛《まぎ》れもないイイナ・ブルスカアヤである。イイナはボックスの一番前に坐り、孔雀《くじゃく》の羽根の扇を使いながら、悠々と舞台を眺め出した。のみならず同伴の外国人の男女《なんにょ》と(その中には必ず彼女の檀那《だんな》の亜米利加人も交《まじ》っていたのであろう。)愉快そうに笑ったり話したりし出した。
「イイナだね。」
「うん、イイナだ。」
僕等はとうとう最後の幕まで、――カルメンの死骸《しがい》を擁《よう》したホセが、「カルメン! カルメン!」と慟哭《どうこく》するまで僕等のボックスを離れなかった。それは勿論舞台よりもイイナ・ブルスカアヤを見ていたためである。この男を殺したことを何とも思っていないらしい露西亜のカルメンを見ていたためである。
× × ×
それから二三日たったある
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