であろうか?――そう思うと妙子は、いても立ってもいられないような気がして来ます。しかし今うっかりそんな気《け》ぶりが、婆さんの眼にでも止まったが最後、この恐しい魔法使いの家から、逃げ出そうという計略は、すぐに見破られてしまうでしょう。ですから妙子は一生懸命に、震える両手を組み合せながら、かねてたくんで置いた通り、アグニの神が乗り移ったように、見せかける時の近づくのを今か今かと待っていました。
婆さんは呪文を唱えてしまうと、今度は妙子をめぐりながら、いろいろな手ぶりをし始めました。或時は前へ立ったまま、両手を左右に挙げて見せたり、又或時は後へ来て、まるで眼かくしでもするように、そっと妙子の額の上へ手をかざしたりするのです。もしこの時部屋の外から、誰か婆さんの容子を見ていたとすれば、それはきっと大きな蝙蝠《こうもり》か何かが、蒼白《あおじろ》い香炉の火の光の中に、飛びまわってでもいるように見えたでしょう。
その内に妙子はいつものように、だんだん睡気《ねむけ》がきざして来ました。が、ここで睡ってしまっては、折角の計略にかけることも、出来なくなってしまう道理です。そうしてこれが出来なければ、勿論二度とお父さんの所へも、帰れなくなるのに違いありません。
「日本の神々様、どうか私《わたし》が睡らないように、御守りなすって下さいまし。その代り私はもう一度、たとい一目でもお父さんの御顔を見ることが出来たなら、すぐに死んでもよろしゅうございます。日本の神々様、どうかお婆さんを欺《だま》せるように、御力を御貸し下さいまし」
妙子は何度も心の中に、熱心に祈りを続けました。しかし睡気はおいおいと、強くなって来るばかりです。と同時に妙子の耳には、丁度|銅鑼《どら》でも鳴らすような、得体の知れない音楽の声が、かすかに伝わり始めました。これはいつでもアグニの神が、空から降りて来る時に、きっと聞える声なのです。
もうこうなってはいくら我慢しても、睡らずにいることは出来ません。現に目の前の香炉の火や、印度人の婆さんの姿でさえ、気味の悪い夢が薄れるように、見る見る消え失《う》せてしまうのです。
「アグニの神、アグニの神、どうか私《わたし》の申すことを御聞き入れ下さいまし」
やがてあの魔法使いが、床の上にひれ伏したまま、嗄《しわが》れた声を挙げた時には、妙子は椅子に坐りながら、殆《ほとん》ど生
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