゙ろふさいせい》の陶器を愛するを見、その愛を共にするに一年有半を要したり。書画、篆刻《てんこく》、等《とう》を愛するに至りしも小穴一游亭に負ふ所多かるべし。天下に易々《いい》として古玩を愛するものあるを見る、われは唯わが性《さが》の迂拙《うせつ》なるを歎《たん》ずるのみ。然れども文章を以て鳴るの士の蒐集品を一見すれば、いづれも皆古玩と称するに足らず。唯室生犀星の蒐集品はおのづから蒐集家の愛を感ぜしむるに足る。古玩にして佳什《かじふ》ならざるも、凡庸《ぼんよう》の徒の及ばざる所なるべし。
われは又|子規居士《しきこじ》の短尺《たんじやく》の如き、夏目《なつめ》先生の書の如き、近人の作品も蔵せざるにあらず。然れどもそは未《いま》だ古玩たらず。(半《なか》ば古玩たるにもせよ。)唯近人の作品中、「越哉《ゑつさい》」及び「鳳鳴岐山《ほうめいきざん》」と刻せる浜村蔵六《はまむらざうろく》の石印《せきいん》のみは聊《いささ》か他に示すに足る古玩たるに近からん乎《か》。わが家《や》の古玩に乏しきは正に上《かみ》に記《しる》せるが如し。われを目《もく》して「骨董《こつとう》好き」と言ふ、誰か掌《たなごころ》を拊《う》つて大笑《たいせう》せざらん。唯われは古玩を愛し、古玩のわれをして恍惚《くわうこつ》たらしむるを知る。売り立ての古玩は価《あたひ》高うして落札すること能《あた》はずと雖《いへど》も、古玩を愛するわが生の豪奢《がうしや》なるを誇るものなり。文章を作り、女人《によにん》を慕ひ、更に古玩を弄《もてあそ》ぶに至る、われ豈《あに》君王《くんわう》の楽しみを知らざらんや。旦暮《たんぼ》に死するも亦《また》瞑目《めいもく》すと言ふべし。雨後《うご》花落ちて啼鳥《ていてう》を聴く。神思《しんし》殆《ほとん》ど無何有《むかう》の郷《さと》にあるに似たり。即ちペンを走らせて「わが家の古玩」の一文を艸《さう》す。若し他日わが家の古玩の目録となるを得ば、幸甚《かうじん》なるべし。
[#地から1字上げ](昭和二年)
[#地から1字上げ]〔遺稿〕
底本:「筑摩全集類聚 芥川龍之介全集第四巻」筑摩書房
1971(昭和46)年6月5日初版第1刷発行
1979(昭和54)年4月10日初版第11刷発行
入力:土屋隆
校正:松永正敏
2007年6月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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