着のままでかけ落ちをしてしまった。そこで、一家安穏のためにした信心が一向役にたたないと思ったせいか、法華気違いだった旦那が急に、門徒へ宗旨替《しゅうしがえ》をして、帝釈様《たいしゃくさま》のお掛地《かけじ》を川へ流すやら、七面様の御影《みえい》を釜の下へ入れて焼くやら、大騒ぎをした事があるそうである。
それからまた、そこに廿《はたち》までいる間に店の勘定をごまかして、遊びに行った事が度々あるが、その頃、馴染みになった女に、心中をしてくれと云われて弱った覚《おぼえ》もある。とうとう一寸《いっすん》逃れを云って、その場は納まったが、後で聞くとやはりその女は、それから三日ばかりして、錺屋《かざりや》の職人と心中をしていた。深間《ふかま》になっていた男がほかの女に見かえたので、面当《つらあ》てに誰とでも死にたがっていたのである。
それから廿の年におやじがなくなったので、紙屋を暇をとって自家《うち》へ帰って来た。半月ばかりするとある日、おやじの代から使っていた番頭が、若旦那に手紙を一本書いて頂きたいと云う。五十を越した実直な男で、その時右の手の指を痛めて、筆を持つ事が出来なかったのである。「万事都合よく運んだからその中にゆく。」と書いてくれと云うので、その通り書いてやった。宛名が女なので、「隅へは置けないぜ」とか何とか云って冷評《ひやか》したら、「これは手前の姉でございます」と答えた。すると三日ばかりたつ内に、その番頭がお得意先を廻りにゆくと云って家を出たなり、いつまでたっても帰らない。帳面を検べてみると、大穴があいている。手紙はやはり、馴染の女の所へやったのである。書かせられた平吉ほど莫迦《ばか》をみたものはない。……
これが皆、嘘である。平吉の一生(人の知っている)から、これらの嘘を除いたら、あとには何も残らないのに相違ない。
× × ×
平吉が町内のお花見の船の中で、お囃子《はやし》の連中にひょっとこの面を借りて、舷《ふなばた》へ上ったのも、やはりいつもの一杯機嫌でやったのである。
それから踊っている内に、船の中へころげ落ちて、死んだ事は、前に書いてある。船の中の連中《れんじゅう》は、皆、驚いた。一番、驚いたのは、あたまの上へ落ちられた清元のお師匠さんである。平吉の体はお師匠さんのあたまの上から、海苔巻《のりまき》や、うで玉子の出ている胴の間の赤毛布《あかゲット》の上へ転げ落ちた。
「冗談じゃあねえや。怪我《けが》でもしたらどうするんだ。」これはまだ、平吉が巫山戯《ふざけ》ていると思った町内の頭《かしら》が、中《ちゅう》っ腹《ぱら》で云ったのである。けれども、平吉は動くけしきがない。
すると頭《かしら》の隣にいた髪結床《かみゆいどこ》の親方が、さすがにおかしいと思ったか、平吉の肩へ手をかけて、「旦那、旦那…もし…旦那…旦那」と呼んで見たが、やはり何とも返事がない。手のさきを握っていると冷くなっている。親方は頭《かしら》と二人で平吉を抱き起した。一同の顔は不安らしく、平吉の上にさしのべられた。「旦那……旦那……もし……旦那……旦那……」髪結床の親方の声が上ずって来た。
するとその時、呼吸とも声ともわからないほど、かすかな声が、面《めん》の下から親方の耳へ伝って来た。「面《めん》を……面をとってくれ……面を。」頭と親方とはふるえる手で、手拭と面を外した。
しかし面の下にあった平吉の顔はもう、ふだんの平吉の顔ではなくなっていた。小鼻が落ちて、唇の色が変って、白くなった額には、油汗が流れている。一眼見たのでは、誰でもこれが、あの愛嬌のある、ひょうきんな、話のうまい、平吉だと思うものはない。ただ変らないのは、つんと口をとがらしながら、とぼけた顔を胴の間の赤毛布《あかゲット》の上に仰向けて、静に平吉の顔を見上げている、さっきのひょっとこの面ばかりである。
[#地から1字上げ](大正三年十二月)
底本:「芥川龍之介全集1」ちくま文庫、筑摩書房
1986(昭和61)年9月24日第1刷発行
1995(平成7)年10月5日第13刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
1971(昭和46)年3月〜1971(昭和46)年11月
入力:j.utiyama
校正:earthian
1998年11月11日公開
2004年3月8日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全2ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング