ウんも今夜はするって云うから、――」
「慎ちゃんは?」
 お絹は薄い※[#「目+匡」、第3水準1−88−81]《まぶた》を挙げて、じろりと慎太郎の顔を眺めた。
「僕はどうでも好い。」
「不相変《あいかわらず》慎ちゃんは煮《に》え切らないのね。高等学校へでもはいったら、もっとはきはきするかと思ったけれど。――」
「この人はお前、疲れているじゃないか?」
 叔母ば半ばたしなめるように、癇高《かんだか》いお絹の言葉を制した。
「今夜は一番さきへ寝かした方が好いやね。何も夜伽ぎをするからって、今夜に限った事じゃあるまいし、――」
「じゃ一番さきに寝るかな。」
 慎太郎はまた弟のE・C・Cに火をつけた。垂死《すいし》の母を見て来た癖に、もう内心ははしゃいでいる彼自身の軽薄を憎みながら、………

        六
 
 それでも店の二階の蒲団《ふとん》に、慎太郎《しんたろう》が体を横たえたのは、その夜の十二時近くだった。彼は叔母の言葉通り、実際旅疲れを感じていた。が、いよいよ電燈を消して見ると、何度か寝反《ねがえ》りを繰り返しても、容易に睡気《ねむけ》を催さなかった。
 彼の隣には父の賢造《けんぞう》が、静かな寝息《ねいき》を洩らしていた。父と一つ部屋に眠るのは、少くともこの三四年以来、今夜が彼には始めてだった。父は鼾《いび》きをかかなかったかしら、――慎太郎は時々眼を明いては、父の寝姿を透《す》かして見ながら、そんな事さえ不審に思いなぞした。
 しかし彼の※[#「目+匡」、第3水準1−88−81]《まぶた》の裏には、やはりさまざまな母の記憶が、乱雑に漂って来勝ちだった。その中には嬉しい記憶もあれば、むしろ忌《いま》わしい記憶もあった。が、どの記憶も今となって見れば、同じように寂しかった。「みんなもう過ぎ去った事だ。善くっても悪くっても仕方がない。」――慎太郎はそう思いながら、糊《のり》の※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《におい》のする括《くく》り枕に、ぼんやり五分刈《ごぶがり》の頭を落着けていた。
 ――まだ小学校にいた時分、父がある日慎太郎に、新しい帽子《ぼうし》を買って来た事があった。それは兼ね兼ね彼が欲しがっていた、庇《ひさし》の長い大黒帽《だいこくぼう》だった。するとそれを見た姉のお絹《きぬ》が、来月は長唄のお浚《さら》いがあるから、今度は自分にも着物
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