、がないわね。家《うち》じゃ女中が二人いたって、ちっとも役にゃ立たないんですよ。」
お絹はちょいと舌打ちをしながら、浅川の叔母と顔を見合せた。
「この節の女中はね。――私の所なんぞも女中はいるだけ、反《かえ》って世話が焼けるくらいなんだよ。」
二人がこんな話をしている間《あいだ》に、慎太郎は金口《きんぐち》を啣《くわ》えながら、寂しそうな洋一の相手をしていた。
「受験準備はしているかい?」
「している。――だけど今年《ことし》は投げているんだ。」
「また歌ばかり作っているんだろう。」
洋一はいやな顔をして、自分も巻煙草《まきたばこ》へ火を移した。
「僕は兄さんのように受験向きな人間じゃないんだからな。数学は大嫌いだし、――」
「嫌いだってやらなけりゃ、――」
慎太郎がこう云いかけると、いつか襖際《ふすまぎわ》へ来た看護婦と、小声に話していた叔母が、
「慎ちゃん。お母さんが呼んでいるとさ。」と火鉢越しに彼へ声をかけた。
彼は吸いさしの煙草を捨てると、無言のまま立ち上った。そうして看護婦を押しのけるように、ずかずか隣の座敷へはいって行った。
「こっちへ御出で。何かお母さんが用があるって云うから。」
枕もとに独り坐っていた父は顋《あご》で彼に差図《さしず》をした。彼はその差図通り、すぐに母の鼻の先へ坐った。
「何か用?」
母は括《くく》り枕の上へ、櫛巻《くしま》きの頭を横にしていた。その顔が巾《きれ》をかけた電燈の光に、さっきよりも一層|窶《やつ》れて見えた。
「ああ、洋一がね、どうも勉強をしないようだからね、――お前からもよくそう云ってね、――お前の云う事は聞く子だから、――」
「ええ、よく云って置きます。実は今もその話をしていたんです。」
慎太郎はいつもよりも大きい声で返事をした。
「そうかい。じゃ忘れないでね、――私も昨日《きのう》あたりまでは、死ぬのかと思っていたけれど、――」
母は腹痛をこらえながら、歯齦《はぐき》の見える微笑をした。
「帝釈様《たいしゃくさま》の御符《ごふ》を頂いたせいか、今日は熱も下ったしね、この分で行けば癒《なお》りそうだから、――美津《みつ》の叔父《おじ》さんとか云う人も、やっぱり十二指腸の潰瘍《かいよう》だったけれど、半月ばかりで癒ったと云うしね、そう難病でもなさそうだからね。――」
慎太郎は今になってさえ、そんな事
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