\―」
戸沢がこう云いかけると、谷村博士は職業的に、透《す》かさず愛想《あいそ》の好い返事をした。
「そうでしょう。多分はあなたの御覧になった後《あと》で発したかと思うんです。第一まだ病状が、それほど昂進してもいないようですから、――しかしともかくも現在は、腹膜炎に違いありませんな。」
「じゃすぐに入院でも、させて見ちゃいかがでしょう?」
慎太郎は険《けわ》しい顔をしたまま、始めて話に口を挟んだ。博士はそれが意外だったように、ちらりと重そうな※[#「目+匡」、第3水準1−88−81]《まぶた》の下から、慎太郎の顔へ眼を注いだ。
「今はとても動かせないです。まず差当《さしあた》りは出来る限り、腹を温める一方ですな。それでも痛みが強いようなら、戸沢さんにお願いして、注射でもして頂くとか、――今夜はまだ中々痛むでしょう。どの病気でも楽じゃないが、この病気は殊に苦しいですから。」
谷村博士はそう云ったぎり、沈んだ眼を畳へやっていたが、ふと思い出したように、胴衣《チョッキ》の時計を出して見ると、
「じゃ私はもう御暇《おいとま》します。」と、すぐに背広の腰を擡《もた》げた。
慎太郎は父や義兄と一しょに、博士に来診《らいしん》の礼を述べた。が、その間《あいだ》も失望の色が彼自身の顔には歴々と現れている事を意識していた。
「どうか博士もまた二三日|中《うち》に、もう一度御診察を願いたいもので、――」
戸沢は挨拶《あいさつ》をすませてから、こう云ってまた頭を下げた。
「ええ、上《あが》る事はいつでも上りますが、――」
これが博士の最後の言葉だった。慎太郎は誰よりずっと後に、暗い梯子《はしご》を下《お》りながら、しみじみ万事休すと云う心もちを抱かずにはいられなかった。…………
五
戸沢《とざわ》やお絹《きぬ》の夫が帰ってから、和服に着換えた慎太郎《しんたろう》は、浅川《あさかわ》の叔母《おば》や洋一《よういち》と一しょに、茶の間《ま》の長火鉢を囲んでいた。襖《ふすま》の向うからは不相変《あいかわらず》、お律《りつ》の唸《うな》り声が聞えて来た。彼等三人は電燈の下に、はずまない会話を続けながら、ややもすると云い合せたように、その声へ耳を傾けている彼等自身を見出すのだった。
「いけないねえ。ああ始終苦しくっちゃ、――」
叔母は火箸《ひばし》を握ったまま、
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