あまあか》りの中に、パナマ帽をかぶった賢造は、こちらへ後《うしろ》を向けたまま、もう入口に直した足駄《あしだ》へ、片足下している所だった。
「旦那《だんな》。工場《こうば》から電話です。今日《きょう》あちらへ御見えになりますか、伺ってくれろと申すんですが………」
 洋一が店へ来ると同時に、電話に向っていた店員が、こう賢造の方へ声をかけた。店員はほかにも四五人、金庫の前や神棚の下に、主人を送り出すと云うよりは、むしろ主人の出て行くのを待ちでもするような顔をしていた。
「きょうは行けない。あした行きますってそう云ってくれ。」
 電話の切れるのが合図《あいず》だったように、賢造は大きな洋傘《こうもり》を開くと、さっさと往来へ歩き出した。その姿がちょいとの間、浅く泥を刷《は》いたアスファルトの上に、かすかな影を落して行くのが見えた。
「神山《かみやま》さんはいないのかい?」
 洋一は帳場机に坐りながら、店員の一人の顔を見上げた。
「さっき、何だか奥の使いに行きました。――良《りょう》さん。どこだか知らないかい?」
「神山さんか? I don't know ですな。」
 そう答えた店員は、上り框《がまち》にしゃがんだまま、あとは口笛を鳴らし始めた。
 その間に洋一は、そこにあった頼信紙へ、せっせと万年筆を動かしていた。ある地方の高等学校へ、去年の秋入学した兄、――彼よりも色の黒い、彼よりも肥《ふと》った兄の顔が、彼には今も頭のどこかに、ありあり浮んで見えるような気がした。「ハハワルシ、スグカエレ」――彼は始《はじめ》こう書いたが、すぐにまた紙を裂《さ》いて、「ハハビョウキ、スグカエレ」と書き直した。それでも「ワルシ」と書いた事が、何か不吉な前兆《ぜんちょう》のように、頭にこびりついて離れなかった。
「おい、ちょいとこれを打って来てくれないか?」
 やっと書き上げた電報を店員の一人に渡した後《のち》、洋一は書き損じた紙を噛み噛み、店の後《うしろ》にある台所へ抜けて、晴れた日も薄暗い茶の間《ま》へ行った。茶の間には長火鉢の上の柱に、ある毛糸屋の広告を兼ねた、大きな日暦《ひごよみ》が懸っている。――そこに髪を切った浅川の叔母が、しきりと耳掻《みみか》きを使いながら、忘れられたように坐っていた。それが洋一の足音を聞くと、やはり耳掻きを当てがったまま、始終|爛《ただ》れている眼を擡《も
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