お富は彼女自身嚇かすやうに、一足新公の側へ寄つた。
「嚇かすえ? 嚇かすだけならば好いぢやありませんか? 肩に金切《きんぎ》れなんぞくつけてゐたつて、風《ふう》の悪いやつらも多い世の中だ。ましてわたしは乞食ですぜ。嚇かすばかりとは限りませんや。もしほんたうに妙な気を出したら、……」
 新公は残らず云はない内に、したたか頭を打ちのめされた。お富は何時か彼の前に、大黒傘をふり上げてゐたのだつた。
「生意気な事をお云ひでない。」
 お富は又新公の頭へ、力一ぱい傘を打ち下した。新公は咄嗟《とつさ》に身を躱《かは》さうとした。が、傘はその途端に、古|湯帷子《ゆかた》の肩を打ち据ゑてゐた。この騒ぎに驚いた猫は、鉄鍋を一つ蹴落しながら、荒神《くわうじん》の棚へ飛び移つた。と同時に荒神の松や油光りのする燈明皿も、新公の上へ転げ落ちた。新公はやつと飛び起きる前に、まだ何度もお富の傘に、打ちのめされずにはすまなかつた。
「こん畜生! こん畜生!」
 お富は傘を揮《ふる》ひ続けた。が、新公は打たれながらも、とうとう傘を引つたくつた。のみならず傘を投げ出すが早いか猛然とお富に飛びかかつた。二人は狭い板の間の上に、少時《しばらく》の間|掴《つか》み合つた。この立ち廻りの最中に、雨は又台所の屋根へ、凄《すさ》まじい音を湊《あつ》め出した。光も雨音の高まるのと一しよに、見る見る薄暗さを加へて行つた。新公は打たれても、引つ掻かれても、遮二無二《しやにむに》お富を※[#「てへん+丑」、第4水準2−12−93]《ね》ぢ伏せようとした。しかし何度か仕損じた後、やつと彼女に組み付いたと思ふと、突然又|弾《はじ》かれたやうに、水口の方へ飛びすさつた。
「この阿魔あ!……」
 新公は障子を後ろにしたなり、ぢつとお富を睨《にら》みつけた。何時か髪も壊れたお富は、べつたり板の間に坐りながら、帯の間に挾んで来たらしい剃刀《かみそり》を逆手《さかて》に握つてゐた。それは殺気を帯びてもゐれば、同時に又妙に艶《なま》めかしい、云はば荒神の棚の上に、背を高めた猫と似たものだつた。二人はちよいと無言の儘、相手の目の中を窺《うかが》ひ合つた。が、新公は一瞬の後、わざとらしい冷笑を見せると、懐《ふところ》からさつきの短銃を出した。
「さあ、いくらでもぢたばたして見ろ。」
 短銃の先は徐《おもむ》ろに、お富の胸のあたりへ向つた。それでも彼女は口惜《くや》しさうに、新公の顔を見つめたきり、何とも口を開かなかつた。新公は彼女が騒がないのを見ると、今度は何か思ひついたやうに、短銃の先を上に向けた。その先には薄暗い中に、琥珀《こはく》色の猫の目が仄《ほの》めいてゐた。
「好《い》いかい? お富さん。――」
 新公は相手をじらすやうに、笑ひを含んだ声を出した。
「この短銃がどん[#「どん」に傍点]と云ふと、あの猫が逆様に転げ落ちるんだ。お前さんにしても同じ事だぜ。そら好いかい?」
 引き金はすんでに落ちようとした。
「新公!」
 突然お富は声を立てた。
「いけないよ。打つちやいけない。」
 新公はお富へ目を移した。しかしまだ短銃の先は、三毛猫に狙ひを定めてゐた。
「いけないのは知れた事だ。」
「打つちや可哀さうだよ。三毛だけは助けておくれ。」
 お富は今までとは打つて変つた、心配さうな目つきをしながら、心もち震へる唇《くちびる》の間に、細かい歯並みを覗かせてゐた。新公は半ば嘲《あざけ》るやうに、又半ば訝《いぶか》るやうに、彼女の顔を眺めたなり、やつと短銃の先を下げた。と同時にお富の顔には、ほつとした色が浮んで来た。
「ぢや猫は助けてやらう。その代り。――」
 新公は横柄《わうへい》に云ひ放つた。
「その代りお前さんの体を借りるぜ。」
 お富はちよいと目を外《そ》らせた。一瞬間彼女の心の中には、憎しみ、怒り、嫌悪、悲哀、その外いろいろの感情がごつたに燃え立つて来たらしかつた。新公はさう云ふ彼女の変化に注意深い目を配りながら、横歩きに彼女の後ろへ廻ると茶の間の障子を明け放つた。茶の間は台所に比べれば、勿論一層薄暗かつた。が、立ち退いた跡と云ふ条、取り残した茶箪笥《ちやだんす》や長火鉢は、その中にもはつきり見る事が出来た。新公は其処に佇《たたず》んだ儘、かすかに汗ばんでゐるらしい、お富の襟もとへ目を落した。するとそれを感じたのか、お富は体を捻《ねぢ》るやうに、後ろにゐる新公の顔を見上げた。彼女の顔にはもう何時の間にか、さつきと少しも変らない、活《い》き活きした色が返つてゐた。しかし新公は狼狽《らうばい》したやうに、妙な瞬《またた》きを一つしながら、いきなり又猫へ短銃を向けた。
「いけないよ。いけないつてば。――」
 お富は彼を止めると同時に、手の中の剃刀《かみそり》を板の間へ落した。
「いけなけりやあすこへお行きなさいな。」
 新公は薄笑ひを浮べてゐた。
「いけ好かない!」
 お富は忌々《いまいま》しさうに呟《つぶや》いた。が、突然立ち上ると、ふて腐れた女のするやうに、さつさと茶の間へはひつて行つた。新公は彼女の諦めの好いのに、多少驚いた容子《ようす》だつた。雨はもうその時には、ずつと音をかすめてゐた。おまけに雲の間には、夕日の光でもさし出したのか、薄暗かつた台所も、だんだん明るさを加へて行つた。新公はその中に佇みながら、茶の間のけはひに聞き入つてゐた。小倉の帯の解かれる音、畳の上へ寝たらしい音。――それぎり茶の間はしんとしてしまつた。
 新公はちよいとためらつた後、薄明るい茶の間へ足を入れた。茶の間のまん中にはお富が一人、袖に顔を蔽《おほ》つた儘、ぢつと仰向《あふむ》けに横たはつてゐた。新公はその姿を見るが早いか、逃げるやうに台所へ引き返した。彼の顔には形容の出来ない、妙な表情が漲《みなぎ》つてゐた。それは嫌悪のやうにも見えれば、恥ぢたやうにも見える色だつた。彼は板の間へ出たと思ふと、まだ茶の間へ背を向けたなり、突然苦しさうに笑ひ出した。
「冗談だ。お富さん。冗談だよ。もうこつちへ出て来ておくんなさい。……」
 ――何分かの後、懐《ふところ》に猫を入れたお富は、もう傘を片手にしながら、破《や》れ筵《むしろ》を敷いた新公と、気軽に何か話してゐた。
「姐《ねえ》さん。わたしは少しお前さんに、訊《き》きたい事があるんですがね。――」
 新公はまだ間が悪さうに、お富の顔を見ないやうにしてゐた。
「何をさ!」
「何をつて事もないんですがね。――まあ肌身を任せると云へば、女の一生ぢや大変な事だ。それをお富さん、お前さんは、その猫の命と懸け替に、――こいつはどうもお前さんにしちや、乱暴すぎるぢやありませんか?」
 新公はちよいと口を噤《つぐ》んだ。がお富は頬笑んだぎり、懐の猫を劬《いたは》つてゐた。
「そんなにその猫が可愛いんですかい?」
「そりや三毛も可愛いしね。――」
 お富は煮え切らない返事をした。
「それとも又お前さんは、近所でも評判の主人思ひだ。三毛が殺されたとなつた日にや、この家の上《かみ》さんに申し訣がない。――と云ふ心配でもあつたんですかい?」
「ああ、三毛も可愛いしね。お上さんも大事にや違ひないんだよ。けれどもただわたしはね。――」
 お富は小首を傾けながら、遠い所でも見るやうな目をした。
「何と云へば好いんだらう? 唯あの時はああしないと、何だかすまない気がしたのさ。」
 ――更に又何分かの後、一人になつた新公は、古|湯帷子《ゆかた》の膝を抱いた儘、ぼんやり台所に坐つてゐた。暮色は疎《まば》らな雨の音の中に、だんだん此処へも迫つて来た。引き窓の綱、流し元の水瓶《みづがめ》、――そんな物も一つづつ見えなくなつた。と思ふと上野の鐘が、一杵《いつしよ》づつ雨雲にこもりながら、重苦しい音を拡げ始めた。新公はその音に驚いたやうに、ひつそりしたあたりを見廻した。それから手さぐりに流し元へ下りると、柄杓《ひしやく》になみなみと水を酌《く》んだ。
「村上新三郎源の繁光、今日だけは一本やられたな。」
 彼はさう呟きざま、うまさうに黄昏《たそがれ》の水を飲んだ。……
        *      *      *
 明治二十三年三月二十六日、お富は夫や三人の子供と、上野の広小路を歩いてゐた。
 その日は丁度竹の台に、第三回内国博覧会の開会式が催される当日だつた。おまけに桜も黒門のあたりは、もう大抵開いてゐた。だから広小路の人通りは、殆ど押し返さないばかりだつた。其処へ上野の方からは、開会式の帰りらしい馬車や人力車の行列が、しつきりなしに流れて来た。前田|正名《まさな》、田口卯吉、渋沢栄一、辻新次、岡倉覚三、下条正雄――その馬車や人力車の客には、さう云ふ人々も交つてゐた。
 五つになる次男を抱いた夫は、袂《たもと》に長男を縋《すが》らせた儘、目まぐるしい往来の人通りをよけよけ、時々ちよいと心配さうに、後ろのお富を振り返つた。お富は長女の手をひきながら、その度に晴れやかな微笑《ほほゑみ》を見せた。勿論二十年の歳月は、彼女にも老《おい》を齎《もたら》してゐた。しかし目の中に冴えた光は昔と余り変らなかつた。彼女は明治四五年頃に、古河屋政兵衛《こがやせいべゑ》の甥《をひ》に当る、今の夫と結婚した。夫はその頃は横浜に、今は銀座の何丁目かに、小さい時計屋の店を出してゐた。……
 お富はふと目を挙げた。その時丁度さしかかつた、二頭立ちの馬車の中には、新公が悠々と坐つてゐた。新公が、――尤《もつと》も今の新公の体は、駝鳥《だてう》の羽根の前立だの、厳《いか》めしい金モオルの飾緒だの、大小幾つかの勲章だの、いろいろの名誉の標章に埋まつてゐるやうなものだつた。しかし半白の髯の間に、こちらを見てゐる赭《あか》ら顔は、往年の乞食に違ひなかつた。お富は思はず足を緩《ゆる》めた。が、不思議にも驚かなかつた。新公は唯の乞食ではない。――そんな事はなぜかわかつてゐた。顔のせゐか、言葉のせゐか、それとも持つてゐた短銃のせゐか、兎に角わかつてはゐたのだつた。お富は眉も動かさずに、ぢつと新公の顔を眺めた。新公も故意か偶然か、彼女の顔を見守つてゐた。二十年以前の雨の日の記憶は、この瞬間お富の心に、切ない程はつきり浮んで来た。彼女はあの日無分別にも、一匹の猫を救ふ為に、新公に体を任さうとした。その動機は何だつたか、――彼女はそれを知らなかつた。新公は亦さう云ふ羽目にも、彼女が投げ出した体には、指さへ触れる事を肯《がへん》じなかつた。その動機は何だつたか、――それも彼女は知らなかつた。が、知らないのにも関らず、それらは皆お富には、当然すぎる程当然だつた。彼女は馬車とすれ違ひながら、何か心の伸びるやうな気がした。
 新公の馬車の通り過ぎた時、夫は人ごみの間から、又お富を振り返つた。彼女はやはりその顔を見ると、何事もないやうに頬笑んで見せた。活《い》き活きと、嬉しさうに。……
[#地から2字上げ](大正十一年八月)



底本:「現代日本文学大系43芥川龍之介集」筑摩書房
   1968(昭和43)年8月25日初版第1刷発行
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1999年1月19日公開
2004年2月19日修正
青空文庫作成ファイル:
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