うに、戸の明いた水口《みづぐち》を睨《にら》みながら、のそりと大きい体を起した。
 この時この水口の戸を開いたのは、いや戸を開いたばかりではない、腰障子もしまひに明けたのは、濡れ鼠になつた乞食だつた。彼は古い手拭をかぶつた首だけ前へ伸ばしたなり、少時《しばらく》は静かな家のけはひにぢつと耳を澄ませてゐた。が、人音のないのを見定めると、これだけは真新しい酒筵《さかむしろ》に鮮かな濡れ色を見せた儘、そつと台所へ上つて来た。猫は耳を平《ひら》めながら、二足三足跡ずさりをした。しかし乞食は驚きもせず後手《うしろで》に障子をしめてから、徐《おもむ》ろに顔の手拭をとつた。顔は髭《ひげ》に埋まつた上、膏薬も二三個所貼つてあつた。しかし垢《あか》にはまみれてゐても、眼鼻立ちは寧《むし》ろ尋常だつた。
「三毛。三毛。」
 乞食は髪の水を切つたり、顔の滴《しづく》を拭つたりしながら、小声に猫の名前を呼んだ。猫はその声に聞き覚えがあるのか、平めてゐた耳をもとに戻した。が、まだ其処《そこ》に佇《たたず》んだなり、時々はじろじろ彼の顔へ疑深い眼を注いでゐた。その間に酒筵を脱いだ乞食は脛《すね》の色も見えない泥足の儘、猫の前へどつかりあぐらをかいた。
「三毛公。どうした?――誰もゐない所を見ると、貴様だけ置き去りを食はされたな。」
 乞食は独り笑ひながら、大きい手に猫の頭を撫でた。猫はちよいと逃げ腰になつた。が、それぎり飛び退《の》きもせず、反《かへ》つて其処へ坐つたなり、だんだん眼さへ細め出した。乞食は猫を撫でやめると、今度は古|湯帷子《ゆかた》の懐から、油光りのする短銃を出した。さうして覚束《おぼつか》ない薄明りの中に、引き金の具合を検《しら》べ出した。「いくさ」の空気の漂つた、人気のない家の台所に短銃をいぢつてゐる一人の乞食――それは確に小説じみた、物珍らしい光景に違ひなかつた。しかし薄眼になつた猫はやはり背中を円《まる》くした儘、一切の秘密を知つてゐるやうに、冷然と坐つてゐるばかりだつた。
「明日になるとな、三毛公、この界隈《かいわい》へも雨のやうに鉄砲の玉が降つて来るぞ。そいつに中《あた》ると死んじまふから、明日はどんな騒ぎがあつても、一日縁の下に隠れてゐろよ。……」
 乞食は短銃を検《しら》べながら、時々猫に話しかけた。
「お前とも永い御馴染《おなじみ》だな。が、今日が御別れだぞ。
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