しかし半白の髯の間に、こちらを見てゐる赭《あか》ら顔は、往年の乞食に違ひなかつた。お富は思はず足を緩《ゆる》めた。が、不思議にも驚かなかつた。新公は唯の乞食ではない。――そんな事はなぜかわかつてゐた。顔のせゐか、言葉のせゐか、それとも持つてゐた短銃のせゐか、兎に角わかつてはゐたのだつた。お富は眉も動かさずに、ぢつと新公の顔を眺めた。新公も故意か偶然か、彼女の顔を見守つてゐた。二十年以前の雨の日の記憶は、この瞬間お富の心に、切ない程はつきり浮んで来た。彼女はあの日無分別にも、一匹の猫を救ふ為に、新公に体を任さうとした。その動機は何だつたか、――彼女はそれを知らなかつた。新公は亦さう云ふ羽目にも、彼女が投げ出した体には、指さへ触れる事を肯《がへん》じなかつた。その動機は何だつたか、――それも彼女は知らなかつた。が、知らないのにも関らず、それらは皆お富には、当然すぎる程当然だつた。彼女は馬車とすれ違ひながら、何か心の伸びるやうな気がした。
新公の馬車の通り過ぎた時、夫は人ごみの間から、又お富を振り返つた。彼女はやはりその顔を見ると、何事もないやうに頬笑んで見せた。活《い》き活きと、嬉しさうに。……
[#地から2字上げ](大正十一年八月)
底本:「現代日本文学大系43芥川龍之介集」筑摩書房
1968(昭和43)年8月25日初版第1刷発行
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1999年1月19日公開
2004年2月19日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全10ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング