へお行きなさいな。」
 新公は薄笑ひを浮べてゐた。
「いけ好かない!」
 お富は忌々《いまいま》しさうに呟《つぶや》いた。が、突然立ち上ると、ふて腐れた女のするやうに、さつさと茶の間へはひつて行つた。新公は彼女の諦めの好いのに、多少驚いた容子《ようす》だつた。雨はもうその時には、ずつと音をかすめてゐた。おまけに雲の間には、夕日の光でもさし出したのか、薄暗かつた台所も、だんだん明るさを加へて行つた。新公はその中に佇みながら、茶の間のけはひに聞き入つてゐた。小倉の帯の解かれる音、畳の上へ寝たらしい音。――それぎり茶の間はしんとしてしまつた。
 新公はちよいとためらつた後、薄明るい茶の間へ足を入れた。茶の間のまん中にはお富が一人、袖に顔を蔽《おほ》つた儘、ぢつと仰向《あふむ》けに横たはつてゐた。新公はその姿を見るが早いか、逃げるやうに台所へ引き返した。彼の顔には形容の出来ない、妙な表情が漲《みなぎ》つてゐた。それは嫌悪のやうにも見えれば、恥ぢたやうにも見える色だつた。彼は板の間へ出たと思ふと、まだ茶の間へ背を向けたなり、突然苦しさうに笑ひ出した。
「冗談だ。お富さん。冗談だよ。もうこつちへ出て来ておくんなさい。……」
 ――何分かの後、懐《ふところ》に猫を入れたお富は、もう傘を片手にしながら、破《や》れ筵《むしろ》を敷いた新公と、気軽に何か話してゐた。
「姐《ねえ》さん。わたしは少しお前さんに、訊《き》きたい事があるんですがね。――」
 新公はまだ間が悪さうに、お富の顔を見ないやうにしてゐた。
「何をさ!」
「何をつて事もないんですがね。――まあ肌身を任せると云へば、女の一生ぢや大変な事だ。それをお富さん、お前さんは、その猫の命と懸け替に、――こいつはどうもお前さんにしちや、乱暴すぎるぢやありませんか?」
 新公はちよいと口を噤《つぐ》んだ。がお富は頬笑んだぎり、懐の猫を劬《いたは》つてゐた。
「そんなにその猫が可愛いんですかい?」
「そりや三毛も可愛いしね。――」
 お富は煮え切らない返事をした。
「それとも又お前さんは、近所でも評判の主人思ひだ。三毛が殺されたとなつた日にや、この家の上《かみ》さんに申し訣がない。――と云ふ心配でもあつたんですかい?」
「ああ、三毛も可愛いしね。お上さんも大事にや違ひないんだよ。けれどもただわたしはね。――」
 お富は小首を傾けながら、
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