まさか接吻はしないかも知れないけれどもいきなり舌を出すとか、あかんべい[#「あかんべい」に傍点]をするとかはしそうである。彼は内心|冷《ひや》ひやしながら、捜《さが》すように捜さないようにあたりの人々を見まわしていた。
するとたちまち彼の目は、悠々とこちらへ歩いて来るお嬢さんの姿を発見した。彼は宿命を迎えるように、まっ直《すぐ》に歩みをつづけて行った。二人は見る見る接近した。十歩、五歩、三歩、――お嬢さんは今目の前に立った。保吉は頭を擡《もた》げたまま、まともにお嬢さんの顔を眺めた。お嬢さんもじっと彼の顔へ落着いた目を注いでいる。二人は顔を見合せたなり、何ごともなしに行き違おうとした。
ちょうどその刹那《せつな》だった。彼は突然お嬢さんの目に何か動揺に似たものを感じた。同時にまたほとんど体中《からだじゅう》にお時儀をしたい衝動を感じた。けれどもそれは懸け値なしに、一瞬の間《あいだ》の出来事だった。お嬢さんははっとした彼を後《うし》ろにしずしずともう通り過ぎた。日の光りを透《す》かした雲のように、あるいは花をつけた猫柳《ねこやなぎ》のように。………
二十分ばかりたった後《のち》、保吉は汽車に揺られながら、グラスゴオのパイプを啣《くわ》えていた。お嬢さんは何も眉毛ばかり美しかった訣《わけ》ではない。目もまた涼しい黒瞳勝《くろめが》ちだった。心もち上を向いた鼻も、……しかしこんなことを考えるのはやはり恋愛と云うのであろうか?――彼はその問にどう答えたか、これもまた記憶には残っていない。ただ保吉の覚えているのは、いつか彼を襲《おそ》い出した、薄明るい憂鬱《ゆううつ》ばかりである。彼はパイプから立ち昇る一すじの煙を見守ったまま、しばらくはこの憂鬱の中にお嬢さんのことばかり考えつづけた。汽車は勿論そう云う間《あいだ》も半面に朝日の光りを浴びた山々の峡《かい》を走っている。「Tratata tratata tratata trararach」
[#地から1字上げ](大正十二年九月)
底本:「芥川龍之介全集5」ちくま文庫、筑摩書房
1987(昭和62)年2月24日第1刷発行
1995(平成7)年4月10日第6刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
1971(昭和46)年3月〜1971(昭和46)年11月
入力:j.utiyama
校正:earthian
1998年12月28日公開
2004年3月9日修正
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