洗礼を受けられたことを、山上の教えを説かれたことを、水を葡萄酒《ぶどうしゅ》に化せられたことを、盲人の眼を開かれたことを、マグダラのマリヤに憑《つ》きまとった七つの悪鬼《あっき》を逐われたことを、死んだラザルを活かされたことを、水の上を歩かれたことを、驢馬《ろば》の背にジェルサレムへ入られたことを、悲しい最後の夕餉《ゆうげ》のことを、橄欖《かんらん》の園のおん祈りのことを、………
神父の声は神の言葉のように、薄暗い堂内に響き渡った。女は眼を輝かせたまま、黙然《もくねん》とその声に聞き入っている。
「考えても御覧なさい。ジェズスは二人の盗人《ぬすびと》と一しょに、磔木《はりき》におかかりなすったのです。その時のおん悲しみ、その時のおん苦しみ、――我々は今|想《おも》いやるさえ、肉が震《ふる》えずにはいられません。殊に勿体《もったい》ない気のするのは磔木の上からお叫びになったジェズスの最後のおん言葉です。エリ、エリ、ラマサバクタニ、――これを解けばわが神、わが神、何ぞ我を捨て給うや?……」
神父は思わず口をとざした。見ればまっ蒼《さお》になった女は下唇《したくちびる》を噛んだなり、神父の顔を見つめている。しかもその眼に閃《ひらめ》いているのは神聖な感動でも何でもない。ただ冷やかな軽蔑《けいべつ》と骨にも徹《とお》りそうな憎悪《ぞうお》とである。神父は惘気《あっけ》にとられたなり、しばらくはただ唖《おし》のように瞬《またた》きをするばかりだった。
「まことの天主、南蛮《なんばん》の如来《にょらい》とはそう云うものでございますか?」
女はいままでのつつましさにも似ず、止《とど》めを刺《さ》すように云い放った。
「わたくしの夫、一番《いちばん》ヶ瀬《せ》半兵衛《はんべえ》は佐佐木家《ささきけ》の浪人《ろうにん》でございます。しかしまだ一度も敵の前に後《うし》ろを見せたことはございません。去《さ》んぬる長光寺《ちょうこうじ》の城攻めの折も、夫は博奕《ばくち》に負けましたために、馬はもとより鎧兜《よろいかぶと》さえ奪われて居ったそうでございます。それでも合戦《かっせん》と云う日には、南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》と大文字《だいもんじ》に書いた紙の羽織《はおり》を素肌《すはだ》に纏《まと》い、枝つきの竹を差《さ》し物《もの》に代え、右手《めて》に三尺五寸の太刀《たち》を抜き、
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