つた箱もついてゐる。彼はその箱に本を載せると、目は活字を拾ひながら、手は出来るだけゆつくりと強情にベルを鳴らし出した。これは横着な交換手に対する彼の戦法の一つである。いつか銀座|尾張町《をはりちやう》の自働電話へはひつた時にはやはりベルを鳴らし鳴らし、とうとう「佐橋甚五郎《さばしじんごらう》」を完全に一篇読んでしまつた。けふも交換手の出ない中《うち》は断じてベルの手をやめないつもりである。
 さんざん交換手と喧嘩した挙句《あげく》、やつと電話をかけ終つたのは二十分ばかりの後である。保吉は礼を云ふ為に後ろの勘定台をふり返つた。すると其処には誰もゐない。女はいつか店の戸口に何か主人と話してゐる。主人はまだ秋の日向《ひなた》に自転車の修繕をつづけてゐるらしい。保吉はそちらへ歩き出さうとした。が、思はず足を止めた。女は彼に背を向けたまま、こんなことを主人に尋ねてゐる。
「さつきね、あなた、ゼンマイ珈琲《コオヒイ》とかつてお客があつたんですがね、ゼンマイ珈琲つてあるんですか?」
「ゼンマイ珈琲?」
 主人の声は細君にも客に対するやうな無愛想である。
「玄米珈琲の聞き違へだらう。」
「ゲンマイ珈琲? ああ、玄米から拵《こしら》へた珈琲。――何だか可笑《をか》しいと思つてゐた。ゼンマイつて八百屋《やほや》にあるものでせう?」
 保吉は二人の後ろ姿を眺めた。同時に又天使の来てゐるのを感じた。天使はハムのぶら下つた天井のあたりを飛揚したまま、何にも知らぬ二人の上へ祝福を授けてゐるのに違ひない。尤も燻製《くんせい》の鯡《にしん》の匂に顔だけはちよいとしかめてゐる。――保吉は突然燻製の鯡を買ひ忘れたことを思ひ出した。鯡は彼の鼻の先に浅ましい形骸を重ねてゐる。
「おい、君、この鯡をくれ給へ。」
 女は忽ち振り返つた。振り返つたのは丁度ゼンマイの八百屋にあることを察した時である。女は勿論その話を聞かれたと思つたのに違ひない。猫に似た顔は目を挙げたと思ふと見る見る羞かしさうに染まり出した。保吉は前にも云ふ通り、女が顔を赤めるのには今までにも度たび出合つてゐる。けれどもまだこの時ほど、まつ赤になつたのを見たことはない。
「は、鯡を?」
 女は小声に問ひ返した。
「ええ、鯡を。」
 保吉も前後にこの時だけは甚だ殊勝《しゆしよう》に返事をした。
 かう云ふ出来事のあつた後、二月ばかりたつた頃であらう、確か翌年《よくとし》の正月のことである。女は何処へどうしたのか、ぱつたり姿を隠してしまつた。それも三日や五日ではない。いつ買ひ物にはひつて見ても、古いストオヴを据ゑた店には例の眇《すがめ》の主人が一人、退屈さうに坐つてゐるばかりである。保吉はちよいともの足らなさを感じた。又女の見えない理由にいろいろ想像を加へなどもした。が、わざわざ無愛想な主人に「お上《かみ》さんは?」と尋ねる心もちにもならない。又実際主人は勿論あのはにかみ屋の女にも、「何々をくれ給へ」と云ふ外には挨拶さへ交《かは》したことはなかつたのである。
 その内に冬ざれた路の上にも、たまに一日か二日づつ暖い日かげがさすやうになつた。けれども女は顔を見せない。店はやはり主人のまはりに荒涼《くわうりやう》とした空気を漂はせてゐる。保吉はいつか少しづつ女のゐないことを忘れ出した。……
 すると二月の末の或夜、学校の英吉利《イギリス》語講演会をやつと切り上げた保吉は生暖《なまあたたか》い南風《なんぷう》に吹かれながら、格別買ひ物をする気もなしにふとこの店の前を通りかかつた。店には電燈のともつた中に西洋酒の罎や罐詰めなどがきらびやかに並んでゐる。これは勿論不思議ではない。しかしふと気がついて見ると、店の前には女が一人、両手に赤子を抱へたまま、多愛《たわい》もないことをしやべつてゐる。保吉は店から往来へさした、幅の広い電燈の光りに忽ちその若い母の誰であるかを発見した。
「あばばばばばば、ばあ!」
 女は店の前を歩き歩き、面白さうに赤子をあやしてゐる。それが赤子を揺《ゆ》り上げる拍子に偶然保吉と目を合はした。保吉は咄嗟に女の目の逡巡する容子《ようす》を想像した。それから夜目《よめ》にも女の顔の赤くなる容子を想像した。しかし女は澄ましてゐる。目も静かに頬笑んでゐれば、顔も嬌羞《けうしう》などは浮べてゐない。のみならず意外な一瞬間の後、揺り上げた赤子へ目を落すと、人前も羞ぢずに繰り返した。
「あばばばばばば、ばあ!」
 保吉は女を後ろにしながら、我知らずにやにや笑ひ出した。女はもう「あの女」ではない。度胸の好《い》い母の一人である。一たび子の為になつたが最後、古来|如何《いか》なる悪事をも犯した、恐ろしい「母」の一人である。この変化は勿論女の為にはあらゆる祝福を与へても好い。しかし娘じみた細君の代りに図々《づうづう》しい母を見出したのは、……保吉は歩みつづけたまま、茫然と家々の空を見上げた。空には南風《みなみかぜ》の渡る中に円《まる》い春の月が一つ、白じろとかすかにかかつてゐる。……
[#地から2字上げ](大正十二年十一月)



底本:「現代日本文学大系43芥川龍之介集」筑摩書房
   1968(昭和43)年8月25日初版第1刷発行
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1999年1月16日公開
2004年2月12日修正
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