トをよごしたらやつと時間の鐘が鳴つた。さうして自分たちは、ロオレンス先生の後から、ぞろぞろ教室の外の廊下へ溢れ出した。
廊下へ出て、黄いろい葉を垂らした庭の樹木を見下してゐると、豊田実君が来て、「ちよいとノオトを見せてくれ給へ」と云つた。それからノオトを開けて見せると、豊田君の見たがつてゐる所は、丁度自分の居眠りをした所だつたので、流石《さすが》に少し恐縮した。豊田君は「ぢやようござんす」と云つて、悠然と向うへ行つてしまつた。悠然と云ふのは、決して好い加減な形容ぢやない。実際君は何時でも、悠然と歩いてゐた。豊田君は今どこで何をしてゐるか、判然とした事は承知しないが、ロオレンス先生に好意を持ち、若しくはロオレンス先生が好意を持つた学生の中で、我々――と云つて悪るければ、少くとも自分が、常に或程度の親しみを感じてゐた、たつた一人の人間である。自分はこれを書いてゐる今でも、君の悠然とした歩き方を思ひ出すと、もう一度君と大学の廊下に立つて、平凡な時候の挨拶でも交換したいやうな気がしないでもない。
その中に又、鐘が鳴つて、我々は二人とも下の教室へ行く事になつた。今度は藤岡勝二博士の言語学の講義である。外の連中は皆先へ行つて、ちやんと前の方へ席をとつて置くが、なまけ者の我々は、何時でも後からはいつて行つて、一番隅の机を占領した。その朝もやはりかう云ふ伝《でん》で、愈《いよいよ》鐘が鳴る間際《まぎは》まで、見晴しの好い二階の廊下に※[#「彳+詆のつくり」、第3水準1−84−31]徊《ていくわい》してゐたのである。藤岡博士の言語学の講義は、その朗々たる音吐とグロテスクな諧謔《かいぎやく》とを聞くだけでも、存在の権利のあるものだつた。尤《もつと》も自分の如く、生来言語学的な頭脳に乏しい人間にとつては、それだけで存在の権利があつたと云ひ直しても別に差支へはない。だから今日も、ノオトをとつたりやめたりしながら、半分はさう云ふ興味で、マツクス・ミユラアがどうとかしたとか云ふ講義を面白がつて聴いてゐた。すると自分の前の席に、髪の毛の長い学生が坐つてゐて、その人の髪の毛が、時々自分のノオトの上を、掃くやうにさらさら通りすぎた。自分は相手が名前も知らない人の事だから、どう云ふ了見で、あんな長髪を蓄へてゐるのだか、つい今日に至るまで問ひ質《ただ》す機会を失つてしまつたが、兎に角それが彼自身の美的要求には合してゐても、他人の実際的要求と矛盾し得る事を発見したのは、正にこの言語学の講義を聞いてゐた時間である。しかし幸《さいはひ》、その講義を聴かうと云ふ、自分の実際的要求がそれ程痛切でなかつたから、髪の毛が邪魔になつた所だけは、ノオトをとらずに捨てて置いた。その中には邪魔にならない所でも、ノオトの代りに画を描く事にした。処が向うに坐つてゐる、何とか云ふ恐しくハイカラな学生の横顔を、半分がた描いた処で運悪く鐘が鳴つた。講義の終を知らせると同時に、午《ひる》になつた事を知らせる鐘である。
我々は一しよに大学前の一白舎《いつぱくしや》の二階へ行つて、曹達水《ソオダすゐ》に二十銭の弁当を食つた。食ひながらいろんな事を弁じ合つた。自分と成瀬との間には、可也《かなり》懸隔《かけへだ》てのない友情が通つてゐた。その上その頃は思想の上でも、一致する点が少くなかつた。殊に二人とも、偶然同時に「ジアン・クリストフ」を読み出して、同時にそれに感服してゐた。だからかう云ふ時になると、毎日のやうに顔を合せてゐる癖に、やはり話がはずみ勝ちだつた。すると二人のゐる所へ、給仕の谷がやつて来て、相場の話をし始めた。それも「まかり間違つたら、これになる覚悟でなくつちや駄目ですね」と、手を後へまはして見せたのだから盛である。成瀬は「莫迦《ばか》だな」と云つて、取合はなかつたが、当時「財布」と云ふ小説を考へてゐた自分は、さまざまな意味で面白かつたから、食事をしまふまで谷の相手になつた。さうして妙な相場の熟語を、十ばかり一度に教へられた。
午後は講義がなかつたから、一白舎を出ると二人で、近所の宮裏に下宿してゐる久米の所へ遊びに行つた。久米は我々以上のなまけ者だから、大抵は教室へも出ずに、下宿で小説や芝居を書いてゐたのである。行つて見ると、やはり机の側に置炬燵《おきごたつ》を据ゑて、「カラマゾフ兄弟」か何か読んでゐた。あたれと云ふから、我々もその置炬燵へはいつたら、掛蒲団の脂臭《あぶらくさ》い匂《にほひ》が、火臭い匂と一しよに鼻を打つた。久米は今、彼の幼年時代に自殺した阿父《おとう》さんの事を、短篇にして書いてゐると云つた。小説はこれが処女作同様だから、見当がつかなくて困るとも云つた。が、相不変《あひかはらず》元気の好ささうな顔をして、余り困つてゐるらしい容子《ようす》もなかつた。その後で「君はどう
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