へた。それから又その老夫人の隣へ腰を下して、シヨルツ氏のピアノを聞いた。確《たしか》、シオパンのノクテユルヌとか何とか云ふものだつたと思ふ。シモンズと云ふ男は、子供の時にシオパンの葬式の行進曲を聞いて、ちやんとわかつたと広告して居るが、自分はシヨルツ氏の器用に動く指を眺めながら、年齢の差を勘定に入れないでも、この点ではシモンズに到底及ばないと観念した。そのあとは何があつたか、もう今は覚えてゐない。が、会が終つて外へ出たら、車寄のまはりに馬車や自働車が、通りぬけられない程沢山並んでゐた。さうしてその中の一つの自働車には、あの金と白粉との老夫人が毛皮に顔を埋めながら、乗らうとしてゐる所だつた。我々は外套の襟を立てて、その間をやつと風の寒い往来へ出た。ふと見ると、我々の前には、警視庁の殺風景な建物が、黒く空を衝《つ》いて聳えてゐた。自分は歩きながら、何だかそこに警視庁のある事が不安になつた。で、思はず「妙だな」と云つたら、成瀬が「何が?」と聞き咎《とが》めた。自分はいやとか何とか云つて、好い加減に返事を胡麻化した。その時はもう我々の左右を、馬車や自働車が盛んに通りすぎてゐた。
五
フイル・ハアモニイ会へ行つたあくる日、午前の大塚博士の講義(題目はリツケルトの哲学だつた。これが自分が聞いた中では最も啓発される所の多かつた講義である)をすませた後で、又成瀬と凩《こがらし》の吹く中を、わざわざ一白舎へ二十銭の弁当を食ひに行つたら、彼が突然自分に、「君は昨夜僕等の後にゐた女の人を知つてゐるかい。」と尋ねた。「知らない。知つてゐるのは隣の金と皮と骨と白粉とだけだ。」「金と皮と――何だい、それは。」「何でも好い。兎に角、後にゐた女の人ぢやない事は確だ。さうして君は又その女の人に惚れでもしたのかい。」「惚れる所か、僕も知らなかつたんだ。」「何だ、つまらない。そんな人間なら、ゐたつてゐなくたつて、同じ事ぢやないか。」「所がね。家に帰つたらムツタアが後の女の人を見たかと云ふんだ。つまりその人が僕の細君の候補者だつたんださうだね。」「ぢや見合ひか。」「見合ひ程まだ進歩したものぢやないんだらう。」「だつて見たかつて云へば、見合ひぢやないか。君のムツタアも亦、迂遠《うゑん》だな。見せる心算《つもり》なら、前へ坐らせりや好いのに。後にゐるものが見える位なら、こんな二十銭の弁当なんぞ食つてゐやしない。」成瀬は親孝行な男だから、自分がかう云ふと、ちよいと妙な顔をした。が、すぐに又、「しかし向うの女の人を本位にして云へば、僕等が前にゐた事になるんだからな。」「成程、あすこぢや両方で向ひ合つてゐようと思つたら、どつちか一方が舞台へ上らなくつちやならない訳だ。――訳だが、それで君は何つて返事をしたんだい。」「見なかつたつて云つたあね。実際見なかつたんだから仕方がないぢやないか。」「さう今になつて、僕に欝憤を洩したつて駄目だよ。だが惜しい事をしたな。一体あれは音楽会だつたから、いけないんだ。芝居なら僕が頼まれなくつたつて、帝劇中の見物をのこらず物色をしてやるんだのに。」――成瀬と自分とはこんな話をしながら、大笑ひに笑ひ合つた。
その日は午後には、独逸語の時間があつた。が、当時我々はアイアムビツクに出席するとか何とか云つて、成瀬が出れば自分が休み、自分が出れば成瀬が休んでゐた。さうして一つ教科書に代る代る二人で仮名をつけて、試験前には一しよにその教科書を読んで間に合せてゐた。丁度その午後の独逸語は成瀬が出席する番に当つてゐたから、自分は食事をしまふと、成瀬に教科書を引き渡して、独りで一白舎の外へ出た。
出ると外は凩《こがらし》が、砂煙を往来の空に捲《ま》き上げてゐた。黄いろい並木の銀杏《いてふ》の落葉も、その中でくるくる舞ひながら、大学前の古本屋の店の奥まで吹かれて行つた。自分はふと松岡を訪ねて見ようと云ふ気になつた。松岡は自分と(恐らくは大抵な人と)違つて大風の吹く日が一番落着いて好いと称してゐた。だからその日などは殊に落着いてゐるだらうと思つて、何度も帽子を飛ばせさうにしながら、やつと本郷五丁目の彼の下宿まで辿りつくと、下宿のお婆さんが入口で、「松岡さんはまだ御休みになつていらつしやいますが」と、気の毒さうな顔をして云つた。「まだ寝てゐる? 恐ろしく寝坊だな。」「いえ、昨夜徹夜なすつて、ついさつきまで起きていらしつたんですがね、今し方寝るからつて、床へおはいりになつたんでございますよ。」「ぢやまだ眼がさめてゐるかも知れない。兎に角ちよいと上つて見ませう。寝てゐればすぐに下りて来ます。」自分は松岡のゐる二階へ、足音を偸《ぬす》みながら、そつと上つた。上つてとつつきの襖《ふすま》をあけると、二三枚戸を立てた、うす暗い部屋のまん中に、松岡の床がとつて
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