》也。
さあれ予は件《くだん》の見神の意識につきて、今一つの言説すべき者あるを感じたり。そは他にもあらず、予が曩《さき》に「我が我ならぬ我となりたり」といひ、「霊的活物とはた[#「はた」に傍点]と行き会ひたり[#「行き会ひたり」に傍点]」と言へるが如き言葉の、尚《な》ほやゝ疎雑《ルーズ》の用法ならざる乎《か》との疑ひ、読者にあらんかとも思ひたれば也。されば、予をして今一度最も厳密に件の意識を言ひ表はさしむれば、今まで現実の我れとして筆|執《と》りつゝありし我れが、はつと思ふ刹那に忽ち天地の奥なる実在と化《な》りたるの意識、我は没して神みづからが現に筆を執りつゝありと感じたる意識[#「今まで現実の我れとして筆執りつゝありし我れが、はつと思ふ刹那に忽ち天地の奥なる実在と化りたるの意識、我は没して神みづからが現に筆を執りつゝありと感じたる意識」に白丸付く]とも言ふべき歟《か》。これ予が超絶、驚絶、駭絶の事実として意識したる刹那の最も厳密なる表現也。予は今、これ以上、又以外にこの刹那に於ける見証の意識を描くの法を知らざる也。予は如是《かくのごとく》に神を見たり、如是に神に会へり。否《いな》、見たり[#「見たり」に傍点]といひ会へり[#「会へり」に傍点]といふの言葉は、なほ皮相的、外面的にして迚《とて》もこの刹那の意識を描尽するに足らず、其は神我の融会也、合一也、其の刹那に於いて予みづからは幾《ほと》んど神の実在に融け合ひたるなり。我即《われすなはち》神となりたる也。感謝す、予はこの驚絶、駭絶の意識をば、直接に、端的に、神より得たり、一毫《いちがう》一糸だに前人の証権を媒《なかだち》とし、若《も》しくは其の意識に依傍したる所あらざる也。(彼等が間接なる感化は言はず。)
顧みるに、予が従前の宗教的信仰といふもの、自得自証より来たれるは少なく、基督《キリスト》其の他の先覚の人格を信じ、若しくは彼等が偉大なる意識を証権として、其れに依り傍《そ》うて[#「依り傍うて」に傍点]幻《おぼろ》げに形づくりたる者、その多きに居りし也。半《なか》ばは他の声に和し、他の意識を襲うて、神をも見たりと感じ、神の愛をも知りぬと許したりし也。即ち間接に他より動かさるゝ所、其の多きに居りし也。後深く内部生活に沈潜するに及びては、一切前人の証権を抛《なげう》ち去つて、自ら独立にわが至情の要求に神の声を聴かむとしぬ。わが要《もと》めは空《むな》しからず、予はわが深き至情の宮居にわが神|在《いま》しぬと感じて幾たびか其の光明に心|跳《をど》りけむ。吾が見たる神は、最早|向《さ》きの因襲的偶像、又は抽象的理想にはあらざりし也。されどかく端的に見たりと感じたりしわが神の、尚ほ一重の薄紗《はくしや》を隔てたる如き感はあらざりし乎《か》、水に映りし花の、朧ろのこゝろを著けざりし乎。予は過去の幼穉《えうち》なる朧げなる経験をば一切虚也、誤也、又は無意義なりとするものにあらず。予は過去一切の経験を貴ぶ。それら皆其の折の機根相応に神を見たる真実|無妄《むまう》の経験として、わが宗教生活史の一鎖一環をなす者にあらずや。謝せよ、これ皆上天の賜《たまもの》也。但《た》だ、予は従来の一切の経験を以て、わが不動の信念の礎《いしずゑ》とせんには、尚ほしかすがに一点の虧隙《きげき》あるを感ぜざるを得ざりし也。予が従来の見神の経験なるもの、謂《い》はば、春の夜のあやなき闇《やみ》に、いづことしもなき一脈の梅が香を辿《たど》り得たるにも譬《たと》へつベし。たしかにそれと著《し》るけれど、なほほのかに微《かす》かなりき。而して今や然らず。わが天地の神は、白日|魄々《とう/\》、驚心駭魄《きやうしんがいはく》の事実として直下当面に現前しぬ。何等の祝福ぞ、末代下根の我等にして、この稀有《けう》微妙の心証を成じて、無量の法《のり》の喜びに与《あづか》るを得ベしとは。
夫《そ》れ見[#「見」に白丸付く]と信[#「信」に白丸付く]と行[#「行」に白丸付く]とは、吾人の宗教生活に於ける三大要義也。三者は相済《あひな》し相資《あひたす》けて、其の価値に軒輊《けんち》すべき所あるを見ず。だゞ予は、予みづからの所証に基づきて、見[#「見」に白丸付く]の一義に従来慣視以上の重要義を附せんとす。人|動《やゝ》もすれば見[#「見」に白丸付く]と信[#「信」に白丸付く]とを対せしめては、信[#「信」に白丸付く]の一義に宗教上|千鈞《せんきん》の重きを措《お》くを常とし、而して見[#「見」に白丸付く]の一義に至りては之れを説くもの稀《まれ》也、況《いは》んや其の光輝ある意義を※[#「確」の「石」に換えて「てへん」]揮《かくき》するものに於いてをや。されど、予は信ず、偉大なる信念の根柢《こんてい》には、常に偉大なる見神[#「見神」に白丸付く]あることを。真に神を見[#「見」に白丸付く]ずして真に神を信[#「信」に白丸付く]ずるものはあらず。基督の信は、常に衷《うち》に神を見、神の声を聴《き》けるより来たり、ポーロの信は、其のダマスコ途上驚絶の天光に接したるより湧《わ》き出でたり。菩提樹《ぼだいじゆ》下の見証や、ハルラ山洞の光耀や、今一々煩《わづら》はしく挙証せざるも、真の見神の、偉大なる信念の根柢たり、又根柢たるべきは了々火よりも燎《あきら》かなり。見[#「見」に白丸付く]なき信は盲信となり、頑信となり、他律信となり、外堅きが如くして内自ら恃《たの》む所なきの感を生ずべし。我等が神を信ず[#「神を信ず」に傍点]と言ひて、尚ほ自ら顧みて、どことなく其の信念の充実せざるを感ずることあるは、是れ尚ほ未だ面相接して神を見ざるが故《ゆゑ》にあらずや。「見ずして信ずるものは幸《さいはひ》なり」、「信仰は未だ見ざる所を望んで疑はず」などいふ古言もあることなれど、是れ未だ真理の両端を尽くしたるものとは言ふべからず。見ざる所を信ずる信をして信たらしむるもの、是れ即《やが》て既に幾分か見たる所の或物を根柢とせるが故に非《あら》ずや。勿論詮議《もちろんせんぎ》を厳にしていはば、見は竟《つひ》に信に帰著すベし。信[#「信」に白丸付く]の尖鋭照著なるもの、即て見[#「見」に白丸付く]なりともいふベし。されど、こゝには唯だ普通|謂《い》ふ所の信の一義を取つて言説せるなり。されば予は将《ま》さに曰《い》ふベし、見ずして信ずる烽フは幸也、されど見て信ずるものは更に幸也と。而してこゝに謂ふ見る[#「見る」に傍点]の義がかの基督の一弟子が手もて再生の基督の肉身に触れて、さて始めて彼れを見たりとせるが如き官覚的浅薄の意味ならざるや、論なき也。夫《そ》れ真に神を見て信ずるものの信念は、宇宙の中心より挺出《ていしゆつ》して三世十方を蔽《おほ》ふ人生の大樹なる乎。生命《いのち》の枝葉永遠に繁り栄えて、劫火《ごふくわ》も之れを燬《や》く能はず、劫風も之れを僵《たふ》す能はず。
予は予が見神の実験の、或は無根拠なる迷信ならざるかを疑ひて、この事ありし後、屡々[#「々」は、底本では踊り字の「二の字点」]《しば/\》之れを理性の法庭に訴へて、其の厳正不仮借なる批評を求めたり。而して予は理性が之れに対して究竟《きうきやう》の是認以外に何等の言をも挿《さしはさ》む能《あた》はざるを見たり。予は又この実験の、予がその折の脳細胞の偶然なる空華ならざりしかをも危《あや》ぶみて、虚心屡々[#「々」は、底本では踊り字の「二の字点」]之れを心上に再現して、前より、後ろより、上下左右、洩《も》らす所なく其の本躰を正視透視したり、而して其の事実の、竟に※[#「嵐」の「風」に換えて「歸」]然《きぜん》として宇宙の根柢より来たれるを確めたり。されど、予は尚ほこの実験の事実が、万が一にも誇大自ら欺きしものにあらざるかを虞《おそ》れて、其の後も幾度となく之れを憶起再現し、務めて第三者の平心を持して、仔細《しさい》に点検したりしが、而かも之れを憶《おも》ひいづる毎に、予は倍々[#「々」は、底本では踊り字の「二の字点」]《ます/\》其の驚くべき事実なるを見るのみ。そは到底如実には言ひ表はしがたき稀有《けう》無類の意識也。今やいよ/\一点の疑をも容《い》れがたき真事実とはなりぬ。但《た》だ予は、予が今日の分として、この実験の意義、価値の幾許《いくばく》なるかを料《はか》り知る能《あた》はざるのみ。真理の躰察、豈《あに》容易ならんや。予は唯だ所謂《いはゆる》「悟後の修行」に一念向上するあらんのみ。
嗚呼《あゝ》、予が見たる所、感じたる所、すべて是《か》くの如し。或《あるひ》は余りに自己を説くに急なるふしもありしならん、或は辞藻やゝ繁くして、意義明瞭ならざるふしもありしならん、いづれは予が筆の至らざる所と諒《りやう》し給ふベし。予は今尚ほこの事の表現に心を砕きつゝある也。但だ予は此《か》くの如くに神を見、而してこれより延《ひ》いて天地の間の何物を以てしても換へがたき光栄無上なる「吾れは神の子なり」てふ意識の欝《うつ》として衷《うち》より湧き出づるを覚えたり。われは宇宙の間に於けるわが真地位を自覚しぬ。吾れは神にあらず、又大自然の一波一浪たる人にもあらず、吾れは「神の子」也、天地人生の経営に与《あづか》る神の子也。何等高貴なる自覚ぞ。この一自覚の中に、救ひも、解脱《げだつ》も、光明も、平安も、活動も、乃至《ないし》一切人生的意義の総合あるにあらずや。嗚呼吾れは神の子也、神の子らしく、神の子として適《ふさ》はしく活《い》きざるべからず。かくして新たなる義務の天地の、わが前に開けたるを感じたり。されど顧みれば、吾れ敗残の生、枯槁《こかう》の躯、一脚歩を屋外に移す能はざるの境に在《あ》りて、能《よ》く何をか為《な》さむ。吾れ一たびはこの矛盾に泣きぬ。而してやがて「世にある限り爾《なんぢ》が最善を竭《つ》くすべし、神を見たるもの竟に死なず」てふ強き心証の声を聞きぬ。新たなる力は衷より充実し来たりぬ。それ吾が見たる神は、常に吾れと偕《とも》に在《い》まして、其の見えざるの手を常に打添へたまふにあらずや。
(明治三十八年五月)
底本:「現代日本文學大系96」筑摩書房
1973(昭和48)年7月10日初版第1刷発行
入力:j.utiyama
校正:Juki
1999年2月19日公開
2000年11月13日修正
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