言をも挿《さしはさ》む能《あた》はざるを見たり。予は又この実験の、予がその折の脳細胞の偶然なる空華ならざりしかをも危《あや》ぶみて、虚心屡々[#「々」は、底本では踊り字の「二の字点」]之れを心上に再現して、前より、後ろより、上下左右、洩《も》らす所なく其の本躰を正視透視したり、而して其の事実の、竟に※[#「嵐」の「風」に換えて「歸」]然《きぜん》として宇宙の根柢より来たれるを確めたり。されど、予は尚ほこの実験の事実が、万が一にも誇大自ら欺きしものにあらざるかを虞《おそ》れて、其の後も幾度となく之れを憶起再現し、務めて第三者の平心を持して、仔細《しさい》に点検したりしが、而かも之れを憶《おも》ひいづる毎に、予は倍々[#「々」は、底本では踊り字の「二の字点」]《ます/\》其の驚くべき事実なるを見るのみ。そは到底如実には言ひ表はしがたき稀有《けう》無類の意識也。今やいよ/\一点の疑をも容《い》れがたき真事実とはなりぬ。但《た》だ予は、予が今日の分として、この実験の意義、価値の幾許《いくばく》なるかを料《はか》り知る能《あた》はざるのみ。真理の躰察、豈《あに》容易ならんや。予は唯だ所謂《いはゆる》「悟後の修行」に一念向上するあらんのみ。
嗚呼《あゝ》、予が見たる所、感じたる所、すべて是《か》くの如し。或《あるひ》は余りに自己を説くに急なるふしもありしならん、或は辞藻やゝ繁くして、意義明瞭ならざるふしもありしならん、いづれは予が筆の至らざる所と諒《りやう》し給ふベし。予は今尚ほこの事の表現に心を砕きつゝある也。但だ予は此《か》くの如くに神を見、而してこれより延《ひ》いて天地の間の何物を以てしても換へがたき光栄無上なる「吾れは神の子なり」てふ意識の欝《うつ》として衷《うち》より湧き出づるを覚えたり。われは宇宙の間に於けるわが真地位を自覚しぬ。吾れは神にあらず、又大自然の一波一浪たる人にもあらず、吾れは「神の子」也、天地人生の経営に与《あづか》る神の子也。何等高貴なる自覚ぞ。この一自覚の中に、救ひも、解脱《げだつ》も、光明も、平安も、活動も、乃至《ないし》一切人生的意義の総合あるにあらずや。嗚呼吾れは神の子也、神の子らしく、神の子として適《ふさ》はしく活《い》きざるべからず。かくして新たなる義務の天地の、わが前に開けたるを感じたり。されど顧みれば、吾れ敗残の生、枯槁《こかう》の躯、一脚歩を屋外に移す能はざるの境に在《あ》りて、能《よ》く何をか為《な》さむ。吾れ一たびはこの矛盾に泣きぬ。而してやがて「世にある限り爾《なんぢ》が最善を竭《つ》くすべし、神を見たるもの竟に死なず」てふ強き心証の声を聞きぬ。新たなる力は衷より充実し来たりぬ。それ吾が見たる神は、常に吾れと偕《とも》に在《い》まして、其の見えざるの手を常に打添へたまふにあらずや。
(明治三十八年五月)
底本:「現代日本文學大系96」筑摩書房
1973(昭和48)年7月10日初版第1刷発行
入力:j.utiyama
校正:Juki
1999年2月19日公開
2000年11月13日修正
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