想を描けとの意[#「過去の国民性もしくは理想を描けとの意」に傍点]となさば如何。此の一解は以て前の三解を補ふには足らざるか。されど吾人は疑ふ、何が故《ゆえ》に過去の国民性もしくは理想を今の作家[#「今の作家」に傍点]に要求する必要あるかと、過去の理想を描きたる作を見んと欲せば、馬琴に帰れ、春水に帰れ、種彦に帰れ、もしくは又た巣林子《さうりんし》、西鶴の作に帰れ。之れを以て今の作家に擬するは屋上屋を架するの愚を演ずるものにはあらざるか。今の作家をして彼《か》の中古派《ローマンチツク、スクール》の覆轍《ふくてつ》を蹈《ふ》ましめんと欲するものにあらざるか。よしや忠孝もしくは義侠を以て国民の特質なりとするも、吾人の見んと欲する所は過去の所謂《いはゆる》忠孝にあらずして今日の忠孝[#「今日の忠孝」に傍点]にあらざるか。過去の所謂家系問題にあらずして、今日の家系問題[#「今日の家系問題」に傍点]にはあらざるか。換言すれば、吾人は明治二十六|世紀《(ママ)》の風潮の為に若干か化醇《モヂフアイ》せられたる忠孝及び家系問題を見んことを欲するにあらざるか。夫《そ》れ忠孝といひ義侠といふ、其の形式的方面は古今不易なりとするも、其の意義内容は不断に変遷し不断に発展す。所謂道徳的理想の不断の発達は之れを希臘《ギリシヤ》の四大徳の例に徴するも明かなるにあらずや。さすれば吾人の今日の作家に要求する国民的特質なるものは件《くだん》の発達し化醇せられたる特質にはあらざるか。而して此《か》かる特質(理想)は今や甚《はなはだ》しき化醇の途次にありて未《いま》だ劃然たる定質を鋳成するに至らざるにはあらざるか、言ひ換ふれば今日の社会は未だ一定せる国民的新特色を有せず[#「一定せる国民的新特色を有せず」に傍点]といふを事実とすべきにはあらざるか。試みに思へ、所謂忠孝、所謂家系の継紹等の過去的理想は、到《いた》る処《ところ》に新思潮と矛盾し衝突しつゝあるにあらずや。此等の理想は今や其の意義の上に多大なる変化を享《う》けつつあるにあらずや。若《もし》之れを事実とせば、一派論者の要求は当を得たりと言ふを得べきか。換言すれば未だ定着したる理想を有せざる今の社会及び文壇に向つて、漫《みだり》に方今の[#「方今の」に傍点]国民的特質を描けと言ふ、其の結果は小細工を以て糊塗せる過去の理想若しくは浅薄なる現時の俗人的理想を描写せしむるにとゞまるフ悔なきを得るか。或は浪六[#「浪六」に傍点]もしくは弦斎一流[#「弦斎一流」に傍点]の小説家が今日に歓迎せらるゝの因を其が国民的特質を描けるの点に帰するものあり、されど浪六《なみろく》、弦斎の作を読みて国民的性情の満足を感ずるの徒は浅薄なる俗人的理想を悦《よろこ》ぶの徒か、然らざれば過去の理想に満足するの徒にはあらざるか。何となれば其の作中に現れたる理想は馬琴、京伝の描きたる理想、言ひ換ふれば多くは過去の理想を再現したるに過ぎざれば也、(弦斎の作には尚《なほ》読者を惹《ひ》く他の一面あれど)。而して此《か》くの如き理想を以て果して今の我が国民に普遍なる特質なりと言ふを得べきか。蓋《けだ》し我が社会は今や新旧過渡の期に際して挙世の趨向《すうかう》に迷はんとす。此の時にあたり、幾多主観的作家の擾々《ぜう/\》たるを見て一国民的詩人もしくは一客観的詩人を見る能《あた》はざる、蓋しまた自然の数にはあらざるか。是等幾多の主観的、抒情的小詩人を葬り去つて後、始めて綜合的客観詩人の徐《おもむ》ろに荘厳なる美術的|伽藍《がらん》を築き来たらんとするにはあらざるか。
 或は曰《い》はく、所謂国民性の描写を言ふものの真意は今の写実的小説に慊らざる所[#「写実的小説に慊らざる所」に傍点]あるが為なりと。以為《おも》へらく、写実小説は文学独立論を意味し、文学独立論は国民的性情の蔑視《べつし》を意味す、これ今の小説の国民に悦ばれざる所以《ゆゑん》なりと。さもあれ吾人は何故に写実小説が其の必然性として国民性の蔑視を意味するかを解する能はず。写実小説|豈特《あにひと》り国民性の埒外《らちぐわい》に逸するものならんや。もし之れを解して、今の写実小説に今一層国民性の美所[#「美所」に傍点]を描けとの意となさんか、(今の写実小説が果して国民性の醜所をのみ描けるやは姑《しばら》く問はざるも)則ち今一層理想的作風[#「理想的作風」に傍点]を取れとの意となさんか、此の要求の当否は兎《と》も角《かく》も、所謂理想的なるもののみ何故に国民性を描くと称せられ、其の醜処弱処を描けるもののみ何故に非国民的と称せらるゝかの理由明ならざるにあらずや。吾人は今の写実小説を以て国民性を描かざるものと思惟《しゐ》する能はず、(かく言ふは無意義なり)随うて此の理由によりて今の写実小説を排する所以を解する能はざる也。
 或はまた国民性を言ふものの意は所謂勧懲主義、教訓主義の再興にありとも解せられざるにあらず[#「所謂」から「あらず」まで傍点]、則ち功利的見地に立ちて今の文学を律せんとするものとも解せられざるべきか。功利と文学との関係[#「功利と文学との関係」に傍点]は正当には如何に解すべきかは此に論ぜずとするも、単なる勧懲主義、単なる教訓主義は以て文学の真意義を蔽《おほ》ひ得ベしとするか。もし蔽ひ得べしとせば其の哲学的根拠[#「哲学的根拠」に傍点]は如何、吾人は之れを叩《たゝ》かざるを得ざる也。
 然らば、今の文壇に国民性を描くの要を唱ふるものの真意義[#「真意義」に傍点]は果して那辺《なへん》にか之れを求むべき。もし之れに是認せらるべき点ありとせば果して何の点ぞ。
 第一[#「第一」に傍点]、今の作家が自家の小主観に埋頭して一歩を此の境外に転ずる能はざるが如き観あるに対して国民性を描けと言ふか、真意は則ち作家に向つて客観的なれ[#「客観的なれ」に傍点]といふにあり、主観を拡大せよ[#「主観を拡大せよ」に傍点]といふにあり。此の意を持して国民性を説く、(此の点につきては漫《みだり》に作家のみ責むべき理由なしとするも)意や可《よ》し、言の不妥なるを如何《いかん》。
 第二[#「第二」に傍点]、今の作家が徒《いたづ》らに人生の暗処、弱処、悲惨事をのみ描きて時に詩的正義[#「詩的正義」に傍点]の大道をだに逸し去らんとするの観あるに対して、国民性を描けといふか、真意は更に人生の美所、高所、光明の側(光明[#「光明」に傍点]といふ意義の厳には如何に解すべきかは姑く別にして)をも描きて詩的正義を点ぜよと言ふにあり。此にも根本の要求点は作家の同情を広大せよ、一層客観的なれといふにあり。意や可し、言の不妥なるを如何。
 第三[#「第三」に傍点]、今の作家が自家の狭隘《けふあい》なる観察に材を※[#「蹠」の「足」に代えて「てへん」]《ひろひと》りて、其の内容の余りに吾人の実生活[#「実生活」に傍点]と風馬牛なるの観あるに対して一層吾人の関心せる、興味多き、実世間、現思潮[#「関心せる、興味多き、実世間、現思潮」に傍点]に接近せよといふか、言ひ換ふれば今一層現在の国民的生活に触着せよといふか、(所謂現思潮の何物たるかは一疑点たれど)所謂国民性を唱ふるものの意此の点に於ても是認せらるべきに似たり。されど其の言や妥当なりと言ふべからず。
 以上三個の主なる理由によりて所謂国民性を描けとの真意義を蔽ひ得べきに似たり。吾人は此の意を持して必しも件《くだん》の要求を排せざるべし。されど何が故に此くの如き模糊《もこ》[#「模」は、底本では「糢」]たる一語を提して此の要求を標せんとはするぞ。何ぞ寧《むし》ろ其の語を直接にして、作家の主観を拡大せよと言はざる。其の同情を国家大にせよと言はざる。実生活に接近せよと言はざる[#「作家の主観を拡大せよと言はざる。其の同情を国家大にせよと言はざる。実生活に接近せよと言はざる」に傍点]。(此の要求の果して如何ばかり今の作家に対して効果あるべきか否かは問はず)要求の真意や可し、されど吾人は国民性を描けとの一語に与《く》みする能はず、何となればそは殆《ほとん》ど無意義に類すれば也[#「無意義に類すれば也」に傍点]。
(明治三十一年五月)



底本:筑摩書房刊『現代日本文學大系96』
   1973(昭和48)年7月10日初版第1刷発行
入力:j.utiyama
校正:丹羽倫子
1999年1月19日公開
1999年8月11日修正
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