頃は熊本から一高へ來て校長をしてゐたので菅君や山川君が夏目を一高へ取れといふ。しかし熊本から洋行して歸つたらすぐに一高へ出ると言ふのではまづいので、大學の方で欲しいといふことも理由となつて遂に一高へ來ることにきまつた。
それですぐロンドンへ東京に地位が出來るといふことを報せる爲電報を打つた。それに對する返事だと思ふが長文の手紙を寄越した。その手紙は菅、大塚、山川、自分などに連名で宛てたもので、相當に理窟ぽいことも書いてあつたやうに覺えてゐる。その手紙は確自分が持つてゐる筈と思ふが、あるとしても一寸探し出せないやうなところに入つてゐるのだらう。先日このことを一寸人に話したら探し出し度いと言つたが、骨折つて探して見ても確にあるかどうかわからないから無駄だと言つて置いた。
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例の有名な博士號辭退問題なども夏目君の一面を表してゐることで、その問題がやかましかつた時、友人の大塚保治君が自分のところへやつて來て、どうも困つた、何か名案はないかといふので、何も困ることはないではないかといつたら、自分よりも福原が困つてゐるのだといふ返事だつた。
福原氏はその頃文部省の當面のお役人である。そこで自分は又何も困ることはない。文部省の方は正當の手續をとつてやつたのだし、受ける方の夏目はいやだといふのだから、文部省の方はやつたつもりでゐるがいいし、夏目の方は貰はないつもりでゐるがいい。それより他仕方があるまい。夏目は強ひると氣にしていけないから強ひてはいけぬ。といつたら大塚君は歸つて行つた。
この問題なども夏目君自身恐らく後になつて考へたら馬鹿げたことをしたと思ひはせぬかとも考へられるが、その場ではさうもゆかなかつたらう。
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その内でこれはまだあまり人に知られてゐないことかとも思ふが、夏目君と同期、即ち明治廿六年の卒業の中にはいろ/\面白い人がゐた。松本文三郎、松本亦太郎さんなどの樣に有名にならなかつたが米山保三郎といつて、哲學を出て後に數學をやつた人がある。丁度田邊元さんのやうな學問をしたのだが、自分でまた世界第一といふ意氣組を持つてゐて頗る變つた男であつた。この變り者の米山が夏目君のことを『あの男は普段默つてゐるが、いざといふ時相談すれば必ず事を處理する力を持つてゐる』といつて感心してゐた。自分はこの米山と親しかつたが松本亦太郎君も大變仲よしで
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