現在吾人の解するところは前の意味であり、その意味に取るとき歴史の二字の上に所謂歴史の概念が彷彿として浮出し來るのを覺ゆるのである。
二
事實といふ語は確なことがらの意味で、韓非子、史記などの古い本に見えてゐる。似た語の事件はあつさりと出來ごとを指すのであるが、古いものでないやうである。又事物と云ふ語もあるが、これは單純にものごとの意味で、廣く有氣無形に應用の利く、可なり古くからの語である。三ツの語は孰も所謂現象を指すのであるが、目の著け所が多少異るので、使用の目的を異にする。吾人は確實なりとの意味に重きを置き、事實と云ふを選んだのであるが、適當と思ふ場合には他の語を使用することもあるのであらう。しかし一番肝心な事實といふ語の使用を誤つてはならないから、今日學者の考へてゐる意味を岩波哲學小辭典で引いて見ると「普通の意味では或時、或處に起りし出來事或は經驗を指し、それを判斷の形式で云ひ表はした特殊的な偶然的な知識」と書いてある。即ち之を約言すれば感官に觸れ理性に認められた現象を云ふことになり、單純な知識とのみ取るのではない。そこに偶然的とあるは了解しかねるが、特殊的の程度のこととすると、他の事實との關係を考へる必要のないこと、即ち單獨性を指したものと取つて置く。さて感官に觸れるには或場所を占めて居なければならぬ譯であるから、空間に席を持たないと信ぜられてゐる心的現象は事實の仲間から除外せられることになる。しかしながら場所を占めてゐないからと云つて確でないとは限らない。何となれば事實を認識して事實と立てたのは心である。其心は一般哲學者が信ずる如く神祕的のものであるか、又一派の心理學者の云ふ如く喉頭筋の作用であるかは問ふところでない。兎も角認識作用を營むものであればそれでよろしい。然らば心はあらゆる事實に先つて第一に確かなる存在である。之を最も根本的な事實と取つて差支ない。在來心を事實の種類と見做さなかつたとすれば、それは見解の透徹しなかつたためであれば、勿論之を拒絶する理由とはならない。却て心が事實の仲間入をするのは、事實の側では一般に重要性を持つことになつたと取つて然るべきである。さうすると又心に依存して生起するあらゆる心的現象は、慥に心が認識承知出來ることであるから、これ又明に一々事實と取るを得べきものである。
前陳の考察は事實の範圍を擴張して物的
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